2009 06123456789101112131415161718192021222324252627282930312009 08

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

The Nicholas Brothers (part 4)

Nicholas_tv1.jpg

 人種の壁に阻まれてハリウッドでキャリアを思うように伸ばすことができなかったニコラス兄弟は、'50年代になるとアメリカ国外、主にヨーロッパでの活動に力を入れるようになっていた。同時に、ハリウッドを離れて映画スターとして第一線を退いた彼らは、当時急速に普及していた新たな媒体=テレビに活動の場を見出していくことにもなる。

 ハリウッド時代後のニコラス兄弟については入手できる映像も少なく、あまり詳しく紹介することができないのだが、ひとつ特筆されるのは、一時期、ニコラス兄弟としてのコンビが解消されていた期間があったということである。ヨーロッパに活動拠点を移し、巡業や映画出演で第二のキャリアを固めていた彼らだったが、ホームシックになったフェイヤードがハロルドを残して'58年に単身アメリカへ帰国。それから'64年までの約7年間、2人はそれぞれピン芸人として活動していたのだ。

 その間、ハロルドは主にフランスで舞台、テレビ、映画を中心に活躍し、歌手として多数のレコードも出すなど、マルチなエンターテイナーとしてかなりの人気者だったようである。ハロルドのヨーロッパ時代の活動についてはネット上にもほとんど情報がなく、全貌を把握することは難しい。映画では、ピエール・グランブラ監督『L'Empire De La Nuit』(1962)への出演が確認できる。また、正確な時期は不明だが、カテリーナ・ヴァレンテのTVショウで「Alright, Okay, You Win」('57年録音のニコラス兄弟の唯一のアルバム『WE DO SING TOO』収録曲)を歌うハロルドの姿をDailyMotionで確認することもできる。

 ソロ時代についてハロルドの回想。
「最初の頃はステージでやりづらかった。踊りながら兄の方を気にしなくていいというのがね。小さい頃は踊りながらよく兄にぶつかってたからさ。でも、何とかやってるうちに慣れるものでね。一人で公演するようになって、観客の方も一人の私を受け入れてくれた。“兄はどこだ?”なんて訊かれなかったよ」('91年、Bruce Goldsteinによるインタヴュー)

 ヨーロッパでは黒人に対する酷い差別もなく、居心地はとても良かったらしい。'51年にドロシー・ダンドリッジと正式に離婚していたハロルドは、このヨーロッパ時代にElyanne Patronneというフランス人女性と再婚し、パリに腰を落ち着けた。

 一方、アメリカに戻った兄フェイヤードは、Vicky Barronというメキシコ人ダンサーと再婚し、ソロ、あるいは彼女と組んで、ハリウッドやラス・ヴェガスのナイトクラブ、またはメキシコ〜南米などで公演し、細々と芸能活動を続けていたようだ(Vicky Barronなる女性との結婚については言及している文献がほとんどなく、信憑性は定かでない。ちなみに、最初の夫人ジェラルディンとは'56年に離婚)。

 2人のコンビが復活するのは'64年、アメリカの人気演芸番組〈The Hollywood Palace〉。その頃にはアメリカの黒人差別も以前とは変化を見せていた。

 今回は、様々な紆余曲折を経験した'50〜'70年代、テレビ時代のニコラス兄弟を追ってみたい。

≫ Read More

| Dance to Jazz | 23:51 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

Origins of the Moonwalk

origins_of_the_moonwalk.jpg

 マイケル・ジャクソンの代名詞とも言えるムーンウォーク。このダンス・ステップは一体いつ誰が考え出したものなのか?
 '08年8月29日に生誕50年を迎えるキング・オブ・ポップだが、ムーンウォークの歴史はそれよりも長い。
 
 ムーンウォークについて語る際、まず最初に断らなくてはならないのは、一般的に“ムーンウォーク”と呼ばれる動きは、実はムーンウォークではない、ということである。

 本来のムーンウォークは、約50cm四方の空間内を、揃えた両足の踵を軸に方向を変えながら、月面でフワフワ浮くようにゆっくりと回る動きを言う。これは'92〜'93年〈DANGEROUS〉ツアーや、'96〜'97年〈HISTORY〉ツアーの「Billie Jean」終盤でマイケルもやっているので、見れば誰でもすぐに分かるだろう。
 これとは別に、無重力空間を旋回するように縦横無尽に滑り回る技もムーンウォークだとされる。円弧を描いて回ったり、無重力の宇宙船内を壁にぶつかりながら制御不能であちこち漂うような動き(速度は速い)が特徴で、これはサークル・グライド Circle Glide などとも呼ばれる。ポッパーのブガルー・シュリンプが映画『ブレイクダンス(Breakin')』(1984)のオープニング・クレジットや、劇中(シュリンプがヒロインの通うジャズダンス教室に乱入する場面)で披露しているのが最高のサンプルだ。
 ネットで色々検索する限り、真正ムーンウォークについては人によってかなり見解が分かれている(マイケルを指導したポッパーの一人、デレク・クーリー・ジャクソンは、ゆっくり回るヴァージョンを本来のムーンウォークだと説明している)。私も本当のところはよく分からないのだが、滑りながら回る、という点に関しては概ね衆目が一致するようだ。

 では、マイケルが「Billie Jean」のステージ・パフォーマンスで必ず見せる、前へ歩行しているように見せながら、後ろへ一直線に移動するあのトリッキーな動きは何なのかと言うと、これはバックスライド Backslide と呼ぶのが正しい。

 この技はストリート・ダンスのポッピングの中で普通に使われていたもので、マイケル以前にも、シャラマーのジェフリー・ダニエルらが出身番組の〈Soul Train〉や〈Top Of The Pops〉で、あるいは、エレクトリック・ブガルーズのポッピン・ピートがトーキング・ヘッズ「Crosseyed And Painless」(1980)のヴィデオで既に披露していた。これをマイケルが取り入れ、'83年5月16日放映のモータウン25周年特番〈Motown 25: Yesterday, Today, Forever〉出演の際、「Billie Jean」のパフォーマンス内で披露したところから、バックスライドは全世界に爆発的に知れ渡ることになる。このステップはメディアによって“ムーンウォーク”と呼ばれ、後にマイケル自身が自伝本や主演映画のタイトルに使用したこともあり、バックスライド=ムーンウォークという(誤った)認識が世界中に定着したわけである。
 “ムーンウォーク”というネーミングは確かに抜群にキャッチーで、“いや、あれは本当はバックスライドっていうんです”とわざわざ訂正しないところがキング・オブ・ポップの偉いところだと思う。

 さて、マイケルが知らしめて世界中を熱狂させたこの“ムーンウォーク”(=バックスライド。以下、ムーンウォークはバックスライドを指す)、実は20世紀前半から存在する恐ろしく古い技なのである。

≫ Read More

| Dance to Jazz | 09:21 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

The Nicholas Brothers (part 3)

Risposta
The Nicholas Brothers in the movie "Botta E Risposta" (1950)

 『遥かなるアルゼンチン』(1940)から『ストーミー・ウェザー』(1943)まで、計6本の20世紀フォックス作品に出演して怒濤の快進撃を見せたニコラス兄弟。しかし、そこからパタリと出演作が途絶えてしまう。なぜか?

 実は、第二次世界大戦のためフェイヤードが徴兵され('43年3月)、ニコラス兄弟としての芸能活動が継続不能になったのである。ハロルドは身体検査の結果、100ポンド(約45キロ)未満だったため兵役を免除された。検査医師はハロルドのがっしりした肩を見て、3回も測定したという(5フィート2インチ=157.5cmという身長が、最低基準に1インチ足りなかったため免除されたという説もある。いずれにせよ、あまりにも小柄だった)。115ポンド(約52キロ)だったフェイヤードは、当初ミシシッピで洗濯要員として働かされたが、最終的にアリゾナ州のフォート・ワチューカに送られ、兵士のために芸を披露する特別任務に就いた。
 フェイヤードの不在中、ハロルドは『Reckless Age』(1944/ユニヴァーサル)と『Carolina Blues』(1944/コロムビア)にソロで出演している。

 '44年4月にフェイヤードが放免されて帰ってきた後も、しかしながら、ニコラス兄弟の黄金時代が戻ることはなかった。ダンサーとして脂の乗った時期だったにもかかわらず、20世紀フォックスは彼らと契約を更新しなかった。

 黒人のニコラス兄弟がハリウッドの白人映画にこれだけ多く出演できた理由には、彼らの芸の素晴らしさはもちろんとして、他にもうひとつ、彼らの若さが重要な要素として挙げられる。いくらスペシャルティ枠の芸人とはいえ、社会的な力を持ちうる成熟した大人の黒人が白人とタメを張るのは、当時のハリウッドの風潮からすればよろしくないことだった。しかし、終戦時にはフェイヤード31歳、7歳下のハロルドでさえ24歳と、立派な大人の男になっていた。もはや彼らは可愛い子供でも青年でもない。ましてや、彼らの常軌を逸したダンスである。フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランドといった白人スターで平和に潤うハリウッド・ミュージカル界にとって、彼らは脅威以外の何ものでもなかったのだ。

 ニコラス兄弟の姉妹であるドロシー・ニコラスが語る。
「黒人が行きすぎたことをするのを良しとしない風潮が当時のアメリカにはあった。あまりにも優れていると雇ってもらえないのよ」(TVドキュメンタリー『We Sing & We Dance』)

 戦後にニコラス兄弟が出演できたアメリカ映画は、ジーン・ケリーと共演した『踊る海賊』(1948)の1本のみ。優れた才能を買われてハリウッドに招かれた彼らは、皮肉にもその突出した芸によってハリウッドから排除されることになったのだ。人種差別の分厚い壁が立ちはだかるアメリカに見切りをつけ、彼らは活動の拠点をヨーロッパに移していく。

≫ Read More

| Dance to Jazz | 01:19 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

The Nicholas Brothers (part 2)

Orchestra Wives
The Nicholas Brothers in the movie "Orchestra Wives" (1942)

 ニコラス兄弟の無敵の黄金期は、何と言っても'40年代前半の20世紀フォックス時代である。太平洋戦争期と被ったため、当時、彼らの出演映画は残念ながら全く日本に入って来なかった。
 彼らは『遥かなるアルゼンチン』(1940)を皮切りに、『ストーミー・ウェザー』(1943)まで全6本の20世紀フォックス作品に出演している。日本ではこの中で僅かに2本、『銀嶺セレナーデ』(1941)が戦後の'46年、『ストーミー・ウェザー』が'88年になって劇場公開されているに過ぎない。最近になってようやくDVDで紹介されるようになってはいるが、日本におけるニコラス兄弟の一般的知名度の低さは、いまだに“戦後”状態を引きずったままと言ってもいいかもしれない。

 これらの映画は、オール黒人キャストの『ストーミー・ウェザー』を除き、すべて通常の白人娯楽映画である。彼らは役者として本筋に絡むわけではなく、“スペシャルティ”(特殊出演者、とでも訳すのか)というクレジットで、約2時間の劇中においてほんの3〜4分のあいだ画面に登場して歌い踊るに過ぎない(こうした措置は、黒人が白人と対等の立場でスクリーンに登場することが許されなかった当時のハリウッドでは慣例的なものだった)。しかし、その3〜4分が凄まじい。白人男女の凡庸な恋愛物語の中にいきなり登場し、誰も見たことがないようなSFX級の超人的ダンスを披露する兄弟。はっきり言って、これはショッキングである。その時点で白人主人公たちの恋の行方など、観ている側にとっては全くどうでもいい話になってしまうのだ。

 '30年代、ニコラス兄弟は舞台でショウストッパーとして共演者たちから恐れられていた。“ショウストッパー”というのは、文字通り“ショウを止める人”、つまり、あまりの素晴らしいパフォーマンスに観客の拍手喝采がやまず、ショウが先に進まなくなってしまう状況を生む最高のアクトのことである。同業者たちは誰も彼らの後には出演したがらなかった。20世紀フォックス時代のニコラス兄弟は、スクリーンの中においても、その恐るべきショウストッパーぶりを存分に発揮したのである。

≫ Read More

| Dance to Jazz | 23:17 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

The Nicholas Brothers (part 1)

DANCE TO JAZZ

Introducing great master hoofers
MAY DA BEAT BE WITH U!
NIcholas 1
The Nicholas Brothers
in the movie "Down Argentine Way" (1940)

 “ジャズで踊る”──シャーデーが登場した'80年代のロンドンのクラブ・シーンでは、いわゆるレア・グルーヴの見地から、ファンキーでソウルフルなモダン・ジャズやラテン・ジャズが盛んにプレイされ、後に“アシッド・ジャズ”と呼ばれるようになるムーヴメントの流れを生み出していた。踊れるネタとしてジャズの実用性がDJたちによって再発見されたのだ。
 しかし、もともとジャズは純粋音楽としてではなく、ダンス音楽として大衆性を獲得した音楽であり、ジャズで踊ること自体はもちろん新しいことでも何でもない。ロックンロールの登場以前、踊るとなれば人々はもっぱらジャズに合わせて踊っていた。

 ジャズがダンス音楽の王様だった頃、銀幕には大勢のダンサーたちが花形として登場した。例えば、優雅にステップを踏むフレッド・アステアや、体操のお兄さんのように跳ねまわるジーン・ケリーの姿は誰でも一度は目にしたことがあるだろう。
 しかし、彼ら白人スター・ダンサーたちの陰に、先に紹介したドロシー・ダンドリッジニーナ・メイ・マッキニーとも関係が深いニコラス兄弟を始め、驚異的な黒人ダンサーたちが存在していたことを忘れてはならない。

 彼らはミュージカル俳優として白人のようにまともなチャンスを与えられず、多くの場合、黒人向けの低予算映画や、白人メジャー映画の中でほんの数分登場することでしか、そのパフォーマンスを映像に記録することができなかった(白人映画で物語の本筋に関係なく登場して特別な芸を披露する彼らは、役名も台詞もなく、大抵“スペシャルティ”としてクレジットされた)。そうした映画の中には、残念ながら日本未公開作品や未ソフト化作品も少なくない。現在、彼ら優れた黒人ダンサーたちの存在が、必ずしも一般的に広く知られていないのは本当に残念なことだ。

 このブログでは“ジャズで踊る(Dance to Jazz)”という題目で、様々な映像を観賞しながら20世紀前半の輝かしい黒人ダンサーたちにスポットを当てていきたいと思う(無理矢理シャーデーから話を繋げているが、実はちっとも関係ない)。

 私はダンスに関してあなたほど詳しくないかもしれない。しかし、ここはひとつジェイムズ・ブラウン風に言ってみたい。彼らの踊りを見るまでは、何も見ていないのも同然なのだ、と。

≫ Read More

| Dance to Jazz | 23:10 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |