ハレルヤ(1929/米)
HALLELUJAH
監督/脚本:キング・ヴィダー
出演:ダニエル・ L・ヘインズ、ニーナ・メイ・マッキニー、ウィリアム・ファウンテン、ヴィクトリア・スピヴィー
製作:MGM
同年公開のフォックス製作『デキシー歌舞曲(Hearts In Dixie)』と並び、ハリウッドの大手会社による映画としては初のオール黒人キャストとなる歴史的作品。映画のトーキー化('27年)を受け、キング・ヴィダーが長年温めていた企画をMGMに持ち込み、難色を示す上層部を、自分の給料を製作費に回す条件で説得してまで撮った渾身の意欲作である。ゴスペル、ブルース、ジャズといった黒人音楽を全編にフィーチャーしたセミ・ミュージカル調の作品で(アーヴィング・バーリン楽曲2曲を含む)、トーキー初期作品的な不自然さもなく、いま観てもその鮮度と完成度の高さには驚かされる。
場所はアメリカ南部。貧しい綿農家の真面目な長男ジーク(ヘインズ)は、綿を売りに出掛けた町で、若い都会娘チック(マッキニー)の色香に迷い、半年分の一家の収入をサイコロ博打ですべて失ってしまう。チックはヒモであるヤクザ者のホットショット(ファウンテン)と組んで、ジークをいかさまでハメたのだ。ホットショットと喧嘩になり、その最中にジークは、一緒に町へ来ていた弟を誤って銃で殺してしまう。
自分の愚かさを省みたジークは、牧師の父親の導きにより自らも神に仕える身となる。やがて偉大な伝道師となった彼の前に、再びチックが現れる。最初ジークを嘲笑していた悪女チックも、彼の説教に心を揺さぶられ、改心して熱烈な信者となる。
清純な義理の妹ミッシー(スピヴィー)と婚約し、牧師として平穏な生活を送るかに見えたジーク。しかし、改心したチックにまたもや欲望を掻き立てられ、ジークは彼女と駆け落ちしてしまう。尻軽なチックは最終的にホットショットと縒りを戻し、ジークを捨てる。ジークは嫉妬に狂い、チックとホットショットを殺してしまうのだった。
服役後、故郷にはジークを温かく迎える変わらぬ家族の姿があった。完。
これが『ハレルヤ』の粗筋である。取って付けたような最後の一行分のオチがいかにも余計だが、しかし、それにしてもこの話はどこかで聞いたことがないだろうか。そう、これは『カルメン』の物語と非常に似ているのである。『カルメン』の登場人物に置き換えれば、主人公の真面目な青年ジークはドン・ホセ、彼を誘惑するあばずれ女チックはカルメン、ジークの許婚ミッシーはミカエラ、チックが浮気するホットショットはエスカミーリョ、ということになる。
こうした古典的なファム・ファタルもののスタイルを踏襲している『ハレルヤ』ではあるが、この作品の面白いところは、(たとえ理想化して描かれていようと)それが当時の南部の黒人の生活に密接した形で描かれている点だ。ドキュメンタリー風情で映される綿畑の光景、綿繰り機を使った作業風景の映像など、史料性も高い要素がこの映画には数多く含まれている。
中でも私が最も興味を引かれたのが、プロットの中心にも組み込まれている、彼らの宗教信仰の在りようである。
まず抜群に面白いのが、映画中盤、伝道師になった主人公ジークが、大勢の信者を前にした屋外集会で説教をする場面。舞台上では家族らがジークを取り巻き、聴衆と一体となって黒人霊歌「Give Me That Old Time Religion」を歌う(舞台にはオルガンもある)。
次に、集会の主役であるジークの説教が始まる。彼は歌うような抑揚の効いた口調で“我々罪人は地獄行きの列車に乗り込む。だが、途中には停車駅がある。そこは信仰の町だ!”と聴衆に向かって語りかける。聴衆は彼の言葉を復唱したり、“イエ~イ!”“ハレルヤ!”などと合いの手を入れて応える。その際、“地獄行きの列車”に引っ掛けたジークのパントマイムが見ものだ。彼は走行する汽車の車輪の様子を両手で表しながら、“その場ムーンウォーク”としか言いようがない実にクールなステップを踏んでみせるのである。彼の説教に興奮したオーディエンスが、ステージに向かって次々と押し寄せていく。
集会場にはチックの姿もある。冷やかしのつもりで見物に来ていたのだ。彼女は一人でジークを野次って嘲笑していたが、ステージへ押し寄せていく信者たちの熱狂に取り残されるうちに、段々と心細くなっていく。ジークの熱いパフォーマンスは続き、説教は感動的な歌となって最高潮を迎える。悪女チックも遂に抗しきれなくなり、終いには“私も救われたい! ジ~ク!”と群衆をかき分けてステージに突進する。
この集会の一連の光景には、激しい既視感を覚えずにはいられない。そう、まるでスターの熱狂的なコンサートでも見ているようなのだ。
これに続いて登場する洗礼式の場面も面白い。ここでは全身を水に沈めるバプティスト教会の全浸礼の様子が見られる(地元の牧師の意見を参考に忠実な再現が試みられたという)。白いローブを纏った大勢の信者たちが列を作り、順番に川で洗礼を受けていく。洗礼を済ませた人間は神を讃えて恍惚となる。川辺では他の信者たちが「Take Me To The Water」を合唱しながら儀式の様子を見守っている。
洗礼を待つ信者の列の中にチックもいる。“善人になりたい。神よ、この私を清めて下さい。プレイズ・ザ・ロード!”と喚きながら、両手を広げて天を仰ぐチック。スターのサイン会か握手会にでも並ぶティーンエイジャーのような大興奮ぶりである。順番が回り、川の中へ連れてこられたチックを見て、儀式を司っていたジークの表情がハッとなる(ここで連続して挿入されるジークとチックの顔のクロースアップは非常に効果的だ)。洗礼を済ませるとチックはいよいよ興奮し、ジークに抱きつく。“私を救ってちょうだい、ジーク!”。何を思ったかジーク、そこでなんと彼は牧師の身であるにもかかわらず、忘我状態のチックを抱き上げて川から上がると、他の信者たちをほったらかしにして川辺のテントの中に彼女を連れ込み、その肉感的な体をむさぼろうとするのである。おいおい。はっきり言って、グルーピーを拾ってベッドへ連れ込むロック・スターの類とやっていることが変わらない。
ジークがテントの中で彼女に抱きついていると、彼の母親が現れて諭す。俺は何をやっているんだ、とようやく我に返るジーク。
白眉は映画後半、熱心な信者となったチックが訪れる教会での集会場面。悪魔と対決して勝利する話を、芝居がかった身振りを交えて扇情的な口調で語るジーク。先述の屋外集会の場面同様、“説教”と言うより“パフォーマンス”と表現したほうがしっくりくる。ジークが悪魔を倒すと会場は盛り上がり、そのまま“I Belong To That Band - Hallelujah”という歌の大合唱へ突入する(盲目のブルース/ゴスペル歌手兼ギタリストであるレヴァランド・ゲイリー・デイヴィスの作品に「I Belong To The Band - Hallelujah」というほぼ同名曲があるが、ここでは全く趣が異なる極めてゴスペル的な旋律が聞かれる。恐らく当時、実際に教会で歌われていた伝統的な歌のひとつなのだろう)。
群衆の中にチックを見つけたジークは、またしてもハッとなる。今にも涎を垂らしそうな犬のような表情を浮かべ、信者たちの間を縫って彼女に近づいていくジーク(懲りない奴だ)。彼の家族たちの表情がここでもクロースアップで挿入され、情欲に流されていく彼の愚かさと悲劇が強調される。
教会内は恍惚と歌い踊る人々でもの凄い騒ぎになっている。若い女性信者のひとりが興奮してジークに抱きつく。我を忘れて天を仰ぐ女性信者。垂直俯瞰で映し出されるこの場面(写真)には、彼らの宗教信仰の異常とも言える熱狂ぶりが鮮やかに捉えられている。完全にタガが外れてしまったその女性信者は、教会の外に引っぱり出されて水をぶっかけられる。興奮しすぎて失神し、会場から担ぎ出される女性ファン──後に人々は、例えば
ビートルズや
マイケル・ジャクソンのコンサートで、これと酷似した光景に出くわすことになる。
公開当時、常軌を逸した信者の熱狂ぶりを強調したこの一連の描写には、“やりすぎだ”という批判もあったらしい。しかし、後世の我々の観点から改めて見れば、監督ヴィダーの鋭さがよく分かる。要するに、この集会場面はロックンロール(に代表される20世紀半ば以降の若者音楽全般)の登場を完璧に予見してしまっているのである。
現在の一般的なポピュラー音楽のベースになっているリズム&ブルースやロックンロールのルーツを辿ると、黒人教会に辿り着く。音楽的な側面よりも、ここではそのコミュニケーションの様式に注目したい。
教会というハコに集まり、手を叩き、足を踏み鳴らして盛り上がる聴衆。牧師の説教は娯楽性に富み、芸人との差は限りなく曖昧である。牧師の言葉に信者たちは掛け声を入れて反応し(コール&レスポンス)、神を讃える歌を合唱して精神を高揚させる。会場は一体となり、恍惚状態に包まれる。
ポピュラー音楽の多くのコンサートに見られる聴衆参加型とも言うべきスタイルは、こうした黒人の宗教集会に原型を持っている。聴衆は歌手が示す簡単なフレーズを復唱したり、手拍子を打ったりすることで自らショウの構成要員となる。“メイク・サム・ノ~イズ”“イエ~イ!”といったやり取りも然り。静粛にステージを見守り、せいぜい演奏が終わった時だけ聴衆が拍手で反応するといった、一方通行的なクラシック音楽のコンサートなどとは全く趣が異なる観賞スタイルである。
また、舞台でパフォームするスターなりバンドは、牧師と同様、そこで何らかのメッセージ(福音)を聴衆に与える。それは“人類皆兄弟”であったり、“地球を守ろう”であったり、“30歳以上は信用するな”であったり、“女王は死んだ”であったり、様々である。メッセージなんかない、と主張する世を拗ねたパンク風情の人々にしても、伝統的・社会的に高級とされる音楽とは正反対の、稚拙な騒音まがいのサウンドを敢えて奏でることで、負けるが勝ち的に価値の転倒を図り、“自分たちこそ正しい、社会がおかしいのだ”というようなメッセージを暗に発していたりする。会場に集まった信者(ファン)たちはそうしたメッセージを受け取り、共鳴し、恍惚として盛り上がる。
こうした宗教的高揚に対するキング・ヴィダーの視線は、非常に客観的で奇妙に冷ややかなものである。
偉大な牧師(スター)として人々から敬われるジークは、チックに野次られて怒り、腕力で彼女を黙らせようとする。また、先述したように、彼はチックの性的魅力に何度も我を忘れて堕落する(洗礼式の際、極度の興奮で前後不覚の彼女をテントに連れ込んで抱こうとする場面は強姦まがいだ)。チックの宗教的情熱にしても、まるで思春期特有の熱病にかかったような状態で、当時の感覚で見ても滑稽ではないかと思われるくらい大袈裟に描かれている。
煩悩まみれの牧師、これに盲目的に熱狂する少女。何か皮肉のようなものすら読み取れてしまうが、ヴィダーの意図は知らない。ひとつ確実に言えるのは、『ハレルヤ』は“黒人は愚かである”という差別認識が社会に存在していたからこそ容認された映画であって、これが白人キャスト作品であれば、間違いなく社会的に猛反発を受けただろう、ということである(何せ、この牧師は劇中で3人も殺しているのだ)。
この映画の公開から4年後の'33年、ドイツでヒトラーが政権を取り、その熱狂的な劇場型政治が始まる20世紀史に思いを馳せると、何ともしみじみとした気分になってしまう。
この映画のニーナ・メイ・マッキニーは素晴らしい。いかにもそこらへんにいそうな不良少女の役を、映画初出演とは思えない堂々とした演技で、実にパワフルに演じている(公開当時16歳)。
マッキニー演じる町娘チックのメンタリティは、いささか古くさい形で誇張されてはいるものの、現在の女子高生などと較べてもさほど落差がないように思う。チックは物事を深く考えず、周囲やその時の気分に流されやすく、スターやアイドルに夢中になるようにキリスト教(ジーク)にハマったかと思うと、簡単に飽きる。秩序を掻き乱し、大人たちに眉をひそめさせる彼女の破天荒でセクシャルなキャラクターは、かなり反社会的なものだ。私には彼女のこのキャラがとても興味深い。
ドロシー・ダンドリッジが“黒いマリリン・モンロー”だったのに対し、大きな瞳が印象的なマッキニーは“褐色のクララ・ボウ”と言われた。クララ・ボウ(写真)はいわゆるフラッパーの教祖的存在で、'20年代後半にセックス・シンボルとして絶大な人気を誇ったハリウッド女優である。
“フラッパー”というのは、当時のリベラルな新世代の若い女性を指す言葉で、“おてんば娘、放蕩娘”というような意味である。彼女たちは古い制度に囚われず、ボーイッシュな短い髪、短いスカート、ケバいメイクといった独特のファッションに身を包み、ちゃらんぽらんなフラッパー用語で話し、夜はジャズ・クラブで踊り狂い、酒を飲み、煙草を吸い、コカインをやり、男たちと次々にヤリまくって享楽的に青春を謳歌した。当然、知的水準はあまり高くない。“おてんば娘”などと言うと可愛らしくて聞こえは良いが、“アッパラパー”とでも訳したほうがイメージ的には近いように思う。当然、大人たちはこの新世代に眉をひそめた。
有頂天でフラフラと遊びほうけていたフラッパー族も、'29年の大恐慌でさすがに元気がなくなり、姿を消すことになる(同時にクララ・ボウも、映画のトーキー化とスキャンダルを乗り切れずに姿を消す)。ちなみに、マリリン・モンローで有名な映画『紳士は金髪がお好き』は、金持ちのパトロンを食い物にするフラッパーの生活を描いたアニタ・ルースの同名小説(1925)を原作としたものだ。
ニーナ・メイ・マッキニー演じるチックにも、時代柄、こうしたフラッパー的な天真爛漫さが見受けられる。ジークが金を持っていると知るや否や、途端に態度を豹変させるあたりも実にフラッパー/ゴールド・ディガー的だ。とはいえ、大都市の華やかな白人娘たちの生活と、アメリカ南部の田舎に住む黒人である彼女のそれには、さすがに大きな隔たりがある。
『ハレルヤ』でマッキニーが醸し出している雰囲気というのは、何か非常に猥雑なストリート感覚とも言うべきもので、その無軌道でアグレッシヴなキャラには、フラッパーを通り越して、むしろジェイムズ・ディーンやエルヴィス・プレスリーの出現に始まる、'50年代以降の反抗的な若者世代のパワーに直結していくものが感じられる(彼女のルックスにしても驚くほど現代的である)。実際、町の酒場で「Swanee Shuffle」(I・バーリン作)を歌い踊る場面で、彼女がプレスリーのような下半身の使い方をしているのには誰もが腰を抜かすはずだ。当時の常識からは考えられないようなセンスの踊り方をしているのである。'29年(昭和4年)の時点で、彼女のようなワイルドなギャルがハリウッド映画で暴れていたというのは、かなり驚くべきことではないだろうか(Chick=“若い娘”という、あまりにもストレートで乱暴な役名にも凄いものがある)。彼女の登場は、どう考えても早過ぎる。
この映画を観ると、ロックンロールが'50年代半ばに突発的に生まれたものではないということが手に取るように分かる。黒人コミュニティの土俗的文化だったゴスペルとブルースは、ジャズの刺激も受けつつ、ジャンプ・ブルースを経てリズム&ブルースへと発展し、これに白人の若者たちが飛びつき、ロックンロールという世界的な特大ヒット商品が生まれる。それは同時に、大人世代を凌駕するための、いわば“若者たちのキリスト教”の誕生でもあった。その大爆発の四半世紀前に作られた『ハレルヤ』には、その胎動の様子が確実に記録されているように思う。
確かに『ハレルヤ』は、ハリウッドの白人による“体のいい黒人映画”かもしれない。この映画には、当時の実際の黒人たちが置かれていたであろう過酷で悲惨な現実は一切描かれていない。しかし、白人による黒人文化の収奪は、そのままロックンロールの出自でもある。そうした意味においても、これは“早過ぎたロックンロール映画”と言って差し支えない、まさに記念碑的な作品なのではないだろうか。
公開当時『ハレルヤ』は、興行的には大成功とも大失敗とも言えない、微妙な成果を収めたようだ。マッキニーの演技は当時の人々に強烈な印象を与えはしたが、アカデミー主演女優賞には引っ掛かりもせず、この作品ではヴィダーが監督賞でノミネートされるのみに終わっている('30年、第3回アカデミー賞)。
この映画でMGMはマッキニーと5年契約を結んだ。しかし、黒人と言えば白人に従属する役しかなかった当時、白人女優に拮抗する容姿とセックス・アピールを持つマッキニーは使い道がなく、彼女に大きな役はさっぱり回ってこなかった。『ハレルヤ』以降のマッキニーのまともな出演作には、ポール・ロブソン共演のイギリス映画『コンゴウ部隊(Sanders Of The River)』(1935)、『Gang Smashers』(1938)、『The Devil's Daughter』(1939)、エリア・カザン監督『Pinky』(1949)などがあるが、はっきり言ってどれも知名度は高くない(せめて『Pinky』くらいは日本版DVDを出してもらいたい)。
ハリウッドでは散々だったマッキニーだが、ヨーロッパでは好意的に迎えられ、“黒いグレタ・ガルボ”というキャッチで舞台やキャバレーを中心に活動し、かなりの成功を収めたようだ。アメリカとヨーロッパを行き来し、戦後はアテネに定住。'60年代に帰国した時は既に引退状態で、'67年にニューヨークの病院で心臓発作で亡くなった時、彼女のことを覚えている人間はほとんどいなかったという。
DVD『ハレルヤ』(特別版)には、マッキニーが出演した2本の短編音楽映画『Pie, Pie, Blackbird』(1932)、『The Black Network』(1936)が特典映像として収録されている(いずれもニコラス兄弟共演)。そこで見られる彼女は、『ハレルヤ』の不良娘とは全く印象が異なる、美しいエレガントな女性として魅力を振りまいている。
また、同DVDでは、黒人映画史家のドナルド・ボーグル(ダンドリッジの伝記『Dorothy Dandridge: A Biography』著者)が音声解説を担当し、かなり内容の濃い話を聞かせてくれる。『ハレルヤ』はもともとエセル・ウォーターズが主演予定だったが、なぜか連絡が取れなかったためマッキニーに決まった、この脇役の男はハティ・マクダニエルの父親だ、などなど、細かいトリビアを交えながら映画の見所を語ってくれ、大変勉強になる。
全ての音楽ファンはこの映画を観るべきだと思う。少なくとも、ダンドリッジの『
カルメン』より数十倍面白いことは請け合いだ。
『ピンキー』に出演したニーナ・メイ・マッキニー(右端)
追記:日本未公開/未ソフト化だったエリア・カザン監督『ピンキー(Pinky)』(1949/20世紀フォックス)を鑑賞した('10年6月にWOWOWで放映)。白人のような容姿を持つ若い黒人女性ピンキー(ジーン・クレイン)が、アメリカ南部の田舎町で差別と闘う物語。黒人でも白人でもないアイデンティティの曖昧さに悩んでいたピンキーが、祖母(エセル・ウォーターズ)が仕える偏屈な白人老婦人(エセル・バリモア)との交流を通して、徐々に黒人としての誇りに目覚め、自分を発見していく過程が丁寧に描かれる。主人公ピンキーはリナ・ホーンに打ってつけの役柄だが、実際に演じたのは白人女優のジーン・クレイン(白人にしか見えない黒人女性の役なので問題はないが、エセル・ウォーターズの孫娘という設定はさすがに無理があり過ぎるか)。白人の差別意識もかなり辛辣に描かれていて、'49年という時代を考えれば文句なしの出来。
ニーナ・メイ・マッキニーは、映画前半、ピンキーの祖母の友人男性の女房(チックがそのまま大人になったような柄の悪い女)役で出演している。ほんの数分間しか登場しない完全な端役。正直、この扱われ方には驚いた。