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『NINE』──あまりにも大きい“落差½”

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 ロブ・マーシャル監督最新作『NINE』(日本公開'10年3月19日)を観た。
 
 フェデリコ・フェリーニ『8½』(1963)に基づいた'82年初演の同名ブロードウェイ・ミュージカルの映画化。舞台版は初演時にトニー賞で最優秀ミュージカル作品賞を含む5部門、'03年の再演時にも最優秀リバイバル・ミュージカル作品賞を含む2部門を獲得したヒット作。映画から舞台へミュージカルとして翻訳されたフェリーニ作品が、ロブ・マーシャルによって、ミュージカルという形で再び映画のフォーマットへ還元された。

 『8½』は、恐らく多くの映画ファンにとってそうであるように、私にとっても極めて思い入れの深い作品である。私の個人的な“終生の映画ベスト10”でも、フェリーニのこの代表作は間違いなくトップ3に入る。そして、同時に私はミュージカル映画好きでもある。そんな私にとって、『NINE』は放っておくわけにはいかない作品なのである。

 『シカゴ(Chicago)』(2002)、『SAYURI(Memoirs of a Geisha)』(2005)に続く、3本目のロブ・マーシャル監督作。この監督に関するこれまでの私の印象は、言うなれば、デコレーションは立派だが、見た目ほどには美味しくないケーキを作る人気パティシエ、というようなものだった。そして、今回彼が選んだ素材は、かつてボブ・フォッシーも『スウィート・チャリティ』(『カビリアの夜』のミュージカル版。'66年ブロードウェイ初演、'69年映画化)に続いて、『オール・ザット・ジャズ』(1979)で手を出したフェリーニの至宝『8½』。ミュージカル、しかも、フォッシー関連という点で、いかにも『シカゴ』の次を狙ったような作品でもある。期待=1½、不安=8½ という感じで劇場へ足を運んだ。


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NINE(2009/米)
NINE
監督:ロブ・マーシャル
脚本:アンソニー・ミンゲラ、マイケル・トルキン
音楽:モーリー・イェストン
原案:アーサー・コピット
振付:ジョン・デルーカ、ロブ・マーシャル
出演:ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ファーギー、ケイト・ハドソン、ニコール・キッドマン、ソフィア・ローレン


 クランクインを目前にしながら新作の構想がまとまらない映画監督グイド。様々な記憶や幻想が次々と去来する中で、彼の人生は混乱し、どんどん袋小路に陥っていく。万事休して映画が放棄された時、彼は自分の中に力が湧いてくるのを感じる……。

 『8½(はっかにぶんのいち)』は、主人公の中年男(フェリーニの分身)の苦悩と再生の物語を、現実と幻想を交錯させながら、まさにサーカスのような目眩く演出で描き出した極上の娯楽映画である。フェリーニ自身によれば、“多分、私が作らなかったある映画の物語”。意味深なタイトルの数字は、それまでのフェリーニの監督作品数に由来する(『8½』の前にフェリーニが監督した作品は全9本。勘定の仕方については諸説あるが、共同監督作『寄席の脚光』、複数監督によるオムニバス映画『街の恋』『ボッカチオ'70』内の短編を全て½と数えると、きちんと8½作目に当たる)。そして、これを更に½歩進めて出来たのが『NINE』というわけである。

 『NINE』の物語や設定は、細かい変更点はあるものの、基本的には『8½』と一緒である。私は舞台版を観ていないので、ここでは純粋に『8½』との比較で映画『NINE』について書くことにする。


アメリカン・パスタ

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『NINE』──主人公グイドを演じるダニエル・デイ=ルイス

 『NINE』の舞台は'60年代のイタリア。主人公の映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ→ダニエル・デイ=ルイス)、関係の冷え切った妻ルイザ(アヌーク・エーメ→マリオン・コティヤール)、肉体だけで繋がる愛人カルラ(サンドラ・ミーロ→ペネロペ・クルス)、理想の女神クラウディア(クラウディア・カルディナーレ→ニコール・キッドマン)、娼婦サラギーナ(エドラ・ガーレ→ファーギー)など、主要登場人物のキャラクターや役名も『8½』と同様である。

 主な変更点は、妻ルイザとグイドの共通の友人ロッセラが衣装デザイナーのリリー(ジュディ・デンチ)として専らグイドの相談役に、また、辛辣な批評家ドーミエがグイドを誘惑する女性ジャーナリストのステファニー(ケイト・ハドソン)に変えられ、グイドの女性関係に重点が置かれていること。グイドの母親をソフィア・ローレンが演じ、オリジナルより重要な役柄になっている点もこの印象を強める(代わりに父親が不在となる)。尚、グイドの旧友メザボッタとその恋人グロリア、下り坂のフランス女優マドレーヌ、魔術師モーリスらは全く登場しない。

 役者の中で実際のイタリア人は、ソフィア・ローレンただ一人。主要キャストはイギリス人、アメリカ人、スペイン人、フランス人などの多国籍俳優群で占められ、イタリア語訛りの奇妙な英語で'60年代のイタリアが表現される。これは、ロブ・マーシャルの前作、太平洋戦争前後の京都の花街を舞台にした和華折衷ゲイシャ映画『SAYURI』と同じパターンである。そこでは、チャン・ツィイー、渡辺謙らのアジア人キャストが英語で演技をし、英語圏の人間から見た“エキゾチック・ジャパン”が絢爛に描かれた。

 英語圏外の国を描きながら台詞に英語が用いられること自体は、演劇のみならず、映画においても慣例的なことなので、これは不問である。但し、『NINE』を観た時にイタリア人が覚えるであろう違和感を、『SAYURI』の記憶と重ね合わせて想像することは、私たち日本人の観客にとって、ある程度は有意義なことだろう。マーシャルが敬意を込めて描く“エキゾチック・ジャパン”を私は面白く眺めることができたが、一方で、“これがゲイシャだ!”とアメリカ人に大きな顔をされるのは、単純にあまり気分が良いものではない。『SAYURI』における異国の風俗描写に付きまとう、どうにも表層的で薄っぺらい印象は、イタリアへ舞台を移した『NINE』でも払拭されることがない。

 とはいえ、“カリフォルニア・ロールなんざ寿司じゃねえ”と怒るのは偏狭というもの。カリフォルニア・ロールにはカリフォルニア・ロールなりの良さというものがあるからだ。アメリカ人がパスタを茹でても、別にバチは当たらない。問題は、パスタがアメリカナイズされることではなく、飽くまで、それを作る人間の料理人としての腕やセンスであり、料理としての完成度である。


『8½』はミュージカル映画である

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『8½』──主人公グイドを演じるマルチェロ・マストロヤンニ

 キャラクター、設定、言語などの細かい変更はさておき、映画『NINE』と『8½』の最も重大な違いとは何だろうか?

 『NINE』が『8½』と最も大きく異なる点は、それがミュージカル形式の作品になっていることである。確かにこの映画では、登場人物たちが現実的な芝居の場面から離れ、歌や踊りで心情を表現する場面が多く見受けられる。一般的にも、『NINE』は『8½』のミュージカル版、と説明される。便宜上、私もそのように先述した。形式的には確かにそうに違いないのだが、しかし、本質的にはむしろ正反対と言うべきだろう。『8½』から『NINE』への移行は、非ミュージカル→ミュージカルではなく、ミュージカル→非ミュージカルとして捉えられるべきだと私は思っている。

 『8½』では、基本的に主人公グイドの視点で物語が進行し、彼の目の前の現実的な事象と、彼の頭の中の非現実的な事象が、映画の観客に対して明確に断られることなく、常に入り交じりながら展開していく。これによって観客は、主人公の混濁した精神のありさまを非常にリアルに感知することになる。それはまるで、主人公、あるいは、監督フェリーニと、頭をパイプのようなもので直接繋がれ、他人の見ている夢を共有するような経験である。

 フェリーニのこの文体は、実はミュージカル映画のそれに限りなく近い。ミュージカル映画においても、私たちと同じような現実を同じように生きている(ように見える)登場人物たちが、何の断りもなく、いきなり歌や踊りを始め、現実性から逸脱する。そこでは、登場人物たちの心情なり、監督のヴィジョンなりが、まさに、そうすることによってしか語り得ない形で、極めて雄弁に、この上なく明快に語られるのである。

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アステアとチャリース「Dancing In The Dark」(映画『バンド・ワゴン』より)

 ミュージカル映画を観ない人のために、ここでひとつだけその実例を挙げておきたい。マイケル・ジャクソン(*1)も愛したヴィンセント・ミネリ監督『バンド・ワゴン(The Band Wagon)』(1953)、その映画中盤で主演のフレッド・アステアとシド・チャリースが繰り広げるナンバー「Dancing In The Dark」である。

 アステアとチャリース演じる男女の間には、それまで誤解による不和があった。夜の公園へやって来た2人。彼らは、たくさんの恋人たちが寄り添って踊る祭の中を黙って通り過ぎる。人気のない広場に出ると、2人は無言のまま、「Dancing In The Dark」の優美な調べに乗せて静かに踊り出す──この場面では、2人の男女の融和が、台詞もなく、ただダンスだけで示される。これほど美しく、説得力のある男女の相互理解の場面を、私は他に観たことがない。この場面の素晴らしさはとても言葉で説明できるものではないし、また、単純にダンス場面だけを観て理解できるものでもないので、実際に『バンド・ワゴン』という映画を鑑賞して確認してもらうしかない。チャリースがおもむろにターンし、2人のダンスが静かに始まる瞬間、私はいつも涙が出そうになる。これこそミュージカルである。そして、これこそ映画だ、と思う。

 ここで注目したいのは、音楽が果たしている役割である。映画において、現実的で合理的な世界と、幻想的で非合理的な世界の境界が消失する時(要するに、何か“劇的”なことが起きる時)、そこでは大抵、音楽が合図のように鳴らされる。それ自体、曖昧模糊として非理性的、感情的な──つまり、夢の感覚に似ている──芸術である音楽は、「現実」と「幻想」を混ぜ合わせる際の、いわば、料理における“つなぎ”材料のようなものである。「現実」から「幻想」へ、あるいは、実際の現実世界から映画世界へ、観客をスムーズに誘導する道具としての音楽。映画のサイレント期にあっても、それはスクリーンの脇にいる楽士たちによって用意されていた。

 ミュージカル映画にとって音楽はもちろん不可欠だが、『8½』においても音楽は常に鳴らされている。ニーノ・ロータの音楽は、フェリーニ作品において、「現実」と「幻想」の間を自由に行き来するための、いわば“魔法の呪文”として、極めて意識的に、効果的に用いられているのである(『8½』を模倣した北野武『TAKESHIS'』が恐ろしく退屈だったのは、結局、“ニーノ・ロータ”がいないからである。フェリーニ作品におけるロータの重要性を、武は全く理解していなかったと思う。その点、『スターダスト・メモリー』のウディ・アレンは賢明だ)

 音楽の魔術的な力を最大限に行使し、「現実」から「幻想」の宇宙へ突き抜けて雄弁に真実を語る『8½』──私はこれを“ミュージカル映画”と呼んでも何ら差し支えないと思っている。

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『8½』撮影中のフェリーニとマストロヤンニ、そして、陣中見舞いに訪れたソフィア・ローレン

 『8½』を“難解”と感じる人は少なくないようだ。そこでひとつ想像されるのは、この映画を“難解”と感じる人たちは、同時に、ミュージカル映画が苦手なのではないか、ということである。彼らは、現実世界の人間と同じように生きている(ように見える)登場人物たちが、突然、歌ったり踊り出したりするのが我慢ならない。彼らは映画に現実世界と同じルールを求める。しかし、彼らが納得するような現実的な映画における「現実」も、現実のように見えるだけで、結局、現実ではない。それは飽くまで括弧つきの「現実」であり、最も現実らしく見えるドキュメンタリー映画の類においてでさえ、現実が描き切られることはない。カメラがしばしば人の視線に例えられるように、映画とは、ある任意の視点から現実を捉えた、極めて主観的なイメージの集積でしかない。映画は常に現実を語り損ねる(あるいは、語りすぎる)。現実を完璧に捉えることができる視線があるとすれば、それは、この世のすべてを同時に見つめる神の視線しかないだろう。

 では、そもそも、私たちが日頃“現実”と認識しているものは一体何なのか? それは、神が見つめる現実に較べれば、ちっぽけな幻想程度のものでしかないはずだ。私たちは結局、生涯を通して、ひとつの大きな夢を見ているに過ぎない。それは、言ってみれば、神が監督する上映時間80年間の映画のようなものである。映画が終われば、すべてが消える。そして、私たちが“現実”と呼ぶものも、その巨大な夢の一部でしかないのである。

 映画は、だから、現実ではなく、夢の代用品としてこそ価値がある。映画とは、つまり、人為的に作り出される夢に他ならない。フェリーニ自身は、それをかつて自嘲的に“嘘”と表現していた。曰く、“私は嘘つきだが、誠実な人間だ”(『私は映画だ 夢と回想』)。この言葉は、“映画とは完全に信じることのできる嘘である”と換言することもできるだろう。(*2)

 『8½』において「幻想」と対比されるところの「現実」も、結局は、映画という巨大な幻想の枠組みの中に収まっている。すべては幻想であり、夢である。取り払われる「現実」と「幻想」の境界──しかし、その境界は、実は最初から存在しないのである。

 『8½』は、“難解”でも“前衛”でも何でもない。むしろ、フェリーニは回帰している。彼は、ただ単純に、本当にごく普通の「映画」を撮っただけなのである。そこでは何でも起きる。私たちを取り巻く様々な事象が、あるいは、自分の願望や恐れや不安が、様々な形をとりながら次々と現れ、そして、消えていく。観客は、ニーノ・ロータの音楽に身を委ね、フェリーニの創った無限の夢空間を、ただ誘われるがままに遊覧すればいい。それは本当に魅惑的な体験である。この作品を観る度、私は映画を観ることの幸福を嗚咽と共に噛みしめる。


『シカゴ』再考

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『シカゴ』──主人公ロキシーを演じるレニー・ゼルウィガー

 『NINE』のミュージカル場面を、ロブ・マーシャルは『シカゴ』の時と全く同じやり方で処理している。通常のミュージカル映画のように、「現実」世界の中に、登場人物たちが歌や踊りで心情を表現する「幻想」世界が混入してくるのではなく、「現実」は「現実」のままで進行し、そこに「幻想」が並行する。具体的には、地のドラマ場面と、ミュージカル場面を、クロスカッティング(切り返し/カットバックとも言う)で交互に画面に登場させる。そして、その「幻想」=ミュージカル場面は、映画の中で、文字通り、“主人公の見ている幻想”として位置づけられる。つまり、「現実」と「幻想」の間に、明確に境界線が引かれている。この人物は芸人のように歌い踊って自己表現していますが、これは主人公の幻想で、実際にこんなことが起きているわけではないので安心してくださいね、というわけである。

 『シカゴ』では、ミュージカル場面は基本的に、ヴォードヴィル・スターを夢見る主人公ロキシー(レニー・ゼルウィガー)の幻想として説明された(ロキシーの幻想として説明できないヴェルマ&看守ママ・モートンのナンバー「Class」は、撮影はされたものの、結局、必然的に本編からは外された)。ステージで歌い踊る登場人物たちのミュージカル場面は、「現実」場面とのクロスカッティングによって、“……という風にロキシーは思い描きました”と常に断られる。

 ミュージカル映画としては邪道とも言えるこの演出が、『シカゴ』において曲がりなりにも成功を収めていた理由は、映画の元になったボブ・フォッシーの舞台版の特異な性質に拠る。実は、舞台版『CHICAGO』においても、ある意味、「現実」と「幻想」が明確に対比されているのである。

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『CHICAGO』のセット──初演版('75~77年/左)と再演版('96年~/右)

 舞台版『CHICAGO』では、ミュージカル場面はいずれもヴォードヴィルの出し物という形をとり、各ナンバーの前に、MC役──オーケストラ指揮者、もしくは、役者の中の誰か──によって“誰某(役名)が歌います「~(曲名)」でございます”という具合に、観客に向けた前口上が述べられる。その時、劇中の「現実」は、観客にはっきり分かる形で「幻想」へ転換する。その「幻想」は、映画版では“ロキシーの見ている幻想”だが、舞台版では“観客の見ている幻想”として位置づけられる。本来、物語の外部にいるはずの楽士たち──通常は観客の目に入らないよう、ステージ前方下段のオーケストラ・ピットに収まる──が、はっきりとステージ上に陣取っている点や、役者が劇中で楽団指揮者に話しかける、あるいは、観客に向かって直接的に語りかける、といった演出も、このMCと同様の効果をもたらしている。

 では、“観客の見ている幻想”とは何か。もちろん、『CHICAGO』という演劇そのものである。どんな演劇であれ映画であれ、それは“観客の見ている幻想”として説明できる。しかし、通常、作品自体がそのことを自ら作品の中で明示することはない。しかし、『CHICAGO』はそれをやるのである。演劇用語でいわゆる“第四の壁を破る”と呼ばれる(反則技的な)演出である。

 『CHICAGO』の物語は、殺人を犯して投獄されたロキシー&ヴェルマが、口八丁の敏腕弁護士の手を借り、悪名を利用してセレブに成り上がるという、非常に風刺的なものである('20年代のシカゴであった実話に想を得ている)。皮肉に満ちたその成り上がり劇は、「現実」を「幻想」へ転換させる上記のヴォードヴィル調の演出──第四の壁の破壊──によって、更に皮肉の度合いを増すことになる。“はい、あなたは今、お芝居を見ています”という、普通なら興ざめでしかない観客への宣告は、『CHICAGO』においては、そこで描かれる物語の本質をあぶり出す重要な表現として機能している。「幻想」は、『CHICAGO』の文脈で換言すれば、“作りごと”であり、“まやかし”であり、“インチキ”であり、つまりは“茶番”である。この「現実」と「幻想」の攪乱によって生じる皮肉にこそ、『CHICAGO』という作品の肝がある。

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『CHICAGO』'75年初演版──「Cell Block Tango」(上段左)、「We Both Reached For The Gun」(上段右)、「Razzle Dazzle」(下段左)、「Hot Honey Rag」(下段右)

 ロブ・マーシャルは、『CHICAGO』においてヴォードヴィル形式が示す「現実」それ自体の虚構(茶番)性を、“ロキシーの見ている幻想”という枠内にひどく矮小化して収めた。その結果、皮肉やドス黒いユーモアは漂白され、映画『シカゴ』は、ヴォードヴィル・スターを夢見るロキシーの成功物語、それ以上でも以下でもない作品に仕上がった。もちろん、皮肉やユーモアは、映画版においても、物語そのものの性質や、舞台版から引き継いだいくつかの演出、あるいは、新たに付け加えられた演出などによって生きているが、マーシャルは、結局のところ、元の舞台版の最もおいしいところを取り落としている。(*3)

 ミュージカル場面を“主人公の見ている幻想”として処理するマーシャルの手法は、当然、ミュージカル映画が苦手な観客から絶賛された。同時に、この作品はミュージカル映画ファンからも概ね好意的に評価された(奥歯に物が詰まったような評価の仕方が多かったようにも思うが)

 ミュージカル映画ファンが『シカゴ』を評価する理由は、いくつかあると思う。ひとつは、テンポの良い演出や編集の妙で、ミュージカル映画の新たな見せ方を提示したこと。そして、その結果、この作品が、曲がりなりにも、ジャンルとしてのミュージカル映画を復権させたこと(アカデミー賞6部門制覇)。そして、もうひとつは、舞台版のヴォードヴィル形式を映画に移植するに当たって、マーシャルの“邪道な”手法が、実際、それなりに有効だったことではないだろうか。

 しかし、私はミュージカル映画を愛する者として、「現実」と「幻想」の間に明確に境界線を引くマーシャルの手法を全力で評価しない。

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初演版でヴェルマ&ロキシーを演じるチタ・リヴェラ&グウェン・ヴァードン
この感動的な胡散臭さ、かっこ悪さ、人間臭さを見よ


 ヴォードヴィル形式によって「現実」を「幻想」に転換する舞台版『CHICAGO』だが、登場人物たちが歌や踊りで心情を表現するミュージカル場面は、“観客の見ている幻想”として扱われながらも(あるいは、そう扱われているがゆえに)、観客に対して直接的に訴えるミュージカル本来の力強さを保っている。

 一方、“ロキシーの見ている幻想”として扱われる映画版のミュージカル場面は、クロスカッティングによって映画内の「現実」と常に隔絶しているため、観客はそこで表現される心情を共有しづらい。もちろん、“ロキシーの見ている幻想”も、「現実」と同じく、巨視的には“観客の見ている幻想”(つまり、映画)の一部には違いないのだが、編集によってそこから擬似的に切り離されることで、観客との間にどうしても一定の距離が生じる。ゆえに、ロキシーの感じていることを客観的に頭で理解はしやすいが、その感情を観客が共有することはない。登場人物たちが歌や踊りでどれだけ心情を表現したとしても、それは飽くまで“ロキシーの見ている幻想”であり、決して“観客が見るべき幻想”ではないからである。

 映画『シカゴ』は、想像力が豊かな芸人志望の女のド根性成功物語として上出来である。それはそれでいいだろう。但し、元のフォッシー版『CHICAGO』(再演版含む)で最終的に語られることが、映画版とはまるで違うということは、舞台版を未見の人のためにも特筆しておきたい。

 虚名に溺れた末、世間から打ち捨てられた愚かな主人公たち。彼女たちを、フォッシーは最後に全身全霊をかけて祝福する。そこには、単なる皮肉なハッピーエンドを越えた大きな意味がある。

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再演版オリジナル・キャストのビビ・ニューワース&アン・ラインキング(ヴェルマ&ロキシー役)
'06年11月14日、『CHICAGO』再演10周年記念ガラ公演にて


 無罪判決直後、新聞屋たちは新たに起きた殺人事件のネタに飛びつき、それまで持てはやしていたロキシーをあっさり放り出してしまう。新聞屋、弁護士、夫、あらゆる人々に去られ、ひとり虚無の中に取り残されたロキシーが、静かに「Nowadays」を歌い出す。これは『CHICAGO』で最も感動的な瞬間である。曲はやがて劇的な高まりを見せ、そのまま場面は、ロキシー&ヴェルマがコンビを組んだステージへと移行していく。そこではこんなことが歌われる。

  自分の人生を好きでもいい
  好きに人生を生きてもいい
  ハリーと結婚してもいいし
  アイクと火遊びしたっていい
  いいじゃない? 素敵じゃない? 素晴らしいじゃない?
  最高じゃない? 楽しいじゃない?
  でも すべては消える
  50年もすれば変わってしまうわ
  だけど 天国 今という時は

  
 嘘やまやかしだらけの腐った世界。混乱に満ちた狂った世界。それでもこの世は素晴らしい。人生は素晴らしい。天国は、いつでも今、ここにある──この普遍的な人生賛歌、そして、人間賛歌は、『CHICAGO』の皮肉なドラマの果てで、どこまでも真っ直ぐに、力強く響く。

 この「Nowadays」の場面で、虚無から再生へと向かう感情の流れは、実は、フェリーニ『8½』の終盤、映画の放棄によって監督生命を絶たれた主人公グイドが、虚脱感の中で再び人生を肯定する際のそれと全く同じである(それは『カビリアの夜』の最終場面とも共通する)。「Nowadays」を歌い終えたロキシー&ヴェルマは、そのままアップテンポの陽気なラグタイム「Hot Honey Rag」に乗って、一世一代のバカ騒ぎを始める。狂騒的で祝祭的なサーカス音楽に包まれ、自分の人生のすべての登場人物たちと輪を作るグイドの姿が、そこにピタリと重なる。フォッシーが『CHICAGO』で最終的に語ることとは、つまり、“人生は祭だ”──『8½』の主人公が、混乱の果てに辿り着く答えと全く同じことなのである(ちなみに、『CHICAGO』を演出していた'70年代半ばの自分をモデルにし、『8½』に型を借りて後にフォッシーが撮ることになるのが『オール・ザット・ジャズ』である)

 映画『シカゴ』で「Nowadays」は、まず、“ロキシーの見ている幻想”内のステージ・ナンバーとして登場し、そこから、ロキシーが歌手としてオーディションを受けている酒場の場面に引き継がれる。その後、映画は、最終的にヴェルマとコンビを組んだロキシーが、「幻想」ではなく、遂に「現実」のステージで歌うクライマックス場面へと移行していく(そこで再び「Nowadays」が歌われ、舞台版と同じく「Hot Honey Rag」へ繋がる)

 オーディション場面の挿入は、ロキシー&ヴェルマのコンビ結成の経緯を現実的なドラマの文脈で分かりやすく説明するためで、つまり、「現実」と「幻想」を明確にするマーシャルの拘りの為せる業である。舞台版を知っている人間は、この場面で間違いなくシラケる(そもそも、ゼルウィガーに全く打ちひしがれた様子や虚脱感がない点に違和感を覚えるだろう)。マーシャル版のラストで描かれているのは、性懲りもなくスターを目指す主人公ロキシーのガッツや執念深さであり、まさしく“夢にまで見た”成功を掴み取ることの喜びである。そこで「Nowadays」は、ロキシーの皮肉な成功物語を飾り立てる単なる享楽的な歌でしかない。「Nowadays」~「Hot Honey Rag」のクライマックス場面を、結局、主人公の“夢の実現”としてしか扱えなかったところに、私は映画『シカゴ』の、そして、ロブ・マーシャルという監督の限界を見る(この「現実」のステージ場面を、やっぱりロキシーの幻想でした、と最後に落とせば、多少は気の利いた皮肉になったと思うが)


これはミュージカル映画なのか?

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『NINE』──記者ステファニー(ケイト・ハドソン)による「Cinema Italiano」

 映画『シカゴ』の成功を踏まえ、ロブ・マーシャルは『NINE』を『シカゴ』と全く同じ方法論で撮っている。ポイントは2つ。ひとつは、舞台作品を映画に描き換えるに当たり、舞台ミュージカルと映画ミュージカルのハイブリッドを作り上げること。もうひとつは、ミュージカル場面を“主人公の見ている幻想”として明確に扱い、「現実」と「幻想」の間に境界線を引くこと。そして、『NINE』では、そのいずれもが裏目に出ている。

 “舞台ミュージカルと映画ミュージカルのハイブリッド”とは、つまり、ミュージカル場面を舞台パフォーマンスの形で演出することである。これによって、舞台版の良さをそのまま映画の中に取り入れようというわけだ。『NINE』においても、ミュージカル場面はいずれも舞台パフォーマンスの形をとる。具体的には、主人公の映画監督グイドの仕事場である、チネチッタ撮影所のサウンドステージを舞台に見立ててミュージカル場面が展開される。

 『シカゴ』では、ミュージカル場面を夢想する主人公が、実際に舞台スターを夢見る人物であることで、ミュージカル場面が舞台形式をとることに──あるいは、劇中にミュージカル場面が登場すること自体に──ひとつの整合感があった。一方、『NINE』の主人公は映画監督である。登場人物たちがいずれも舞台パフォーマンスという形で表現を行うというのは、映画監督の見る幻想として、いかにも不自然ではないか、という疑問(『8½』においては、グイドが見る幻想はそのまま彼の映画の構想でもあった)。もちろん、たとえ舞台形式であれ、そのミュージカル場面自体が圧倒的に面白ければ、そんなケチな疑問は一瞬で吹き飛ぶのだが、マーシャルが『NINE』でやっている演出は、女たちが悩殺的な下着姿でバーレスク風に歌い踊るという、いずれも『シカゴ』の焼き直しのようなものばかりで、正直、どれも大して芸がないのである(個人的には、モノクロ処理を効果的に使った「Cinema Italiano」が少し面白く映った程度だった)

 映画監督なのに発想がいちいち舞台的、という、この据わりの悪さを解決する方法は2つある。ひとつは、主人公の設定を、映画監督ではなく、舞台演出家に変えてしまう。それならば、「幻想」が舞台形式をとって現れても、“ああ、さすが舞台演出家”と腑に落ちる。しかし、これだと『オール・ザット・ジャズ』になってしまうので、NG。

 もうひとつの解決法は、主人公の設定は映画監督のままで、「幻想」のイメージを思いきり映画的にしてしまうことである。舞台では絶対に不可能な、映像表現にしかできない演出を行う。極端な話、それこそバズビー・バークレイ並にぶっ飛んだ、R指定ものの麻薬的な幻想世界をミュージカル場面で展開する。そこにこそマーシャルの腕の見せ所はあったし、『NINE』という舞台作品を映画に描き換える意味も、あるいは、『8½』をミュージカル映画化する意味もあったはずなのだ。映画『NINE』の主人公の想像力は、映画監督としてあまりにも貧弱であるし、それは同時に、ロブ・マーシャルという監督の想像力の貧弱さを表しているようにも思う。結局のところ、マーシャルは、『シカゴ』で成功した“舞台ミュージカルと映画ミュージカルのハイブリッド”というスタイルを過信してしまったのだろう。

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『NINE』──女たちがお披露目されるオープニング「Overture Delle Donne」

 映画『NINE』の大きな欠陥のもう一点は、相変わらず「現実」と「幻想」の間に境界線を設けていることである。『シカゴ』と同様、ミュージカル場面は、基本的にクロスカッティングによって地のドラマ場面と並列される。そして、映画内で“主人公の見ている幻想”として常に断られる。

 『シカゴ』の場合、主人公は“夢見る”女なので、それでも別に構わない。「幻想」を飽くまで“主人公の見ている幻想”として静観しながらも、観客はその皮肉な成功物語をそれなりに楽しむことができる。但し、『NINE』の場合、主人公の苦悩や混乱を表す「幻想」は、“主人公の見ている幻想”であると同時に、“観客の見るべき幻想”でなくてはならない。そうでないと、『NINE』は、同情の余地もない、単なる独りよがりで自堕落な色情狂の男の話になってしまうからだ。そして、『NINE』は実際、かなりの割合で、そういう映画になってしまっているのである。

 では、「幻想」=ミュージカル場面が“観客の見るべき幻想”であるためには、どうすればいいのか。「現実」との境界を消失させるしかない。“主人公の見ている幻想”ではなく、目の前の厳然たる事実として“それ”が起きなければ、観客の感情が動くことはない。

 例えば夢の中で、私たちは、何十年も会っていない旧友や、死別した肉親に会ったりする。昔の恋人と現在の恋人がなぜか同じ場に居合わせていたり、あるいは、会社の外へ出たら、そこに自分の通っていた小学校があったりする。かと思えば、突然わけのわからない獣に追われたり、時には、鳥のように空を飛べたりすることもある。そこでは「現実」と「幻想」の境界など、何の意味も持たない。どんなに不条理で非現実的なことが起きようと、夢を見ている時、人はそれをただ当然のこととして受け入れ、同時に、激しく感情を揺さぶられる。夢ほど説得力のある“作りごと”はない。そして、映画も、そのような体験であるべきなのである。

 ミュージカル場面を飽くまで“主人公の見ている幻想”として扱い、執拗に「現実」と「幻想」を区別するロブ・マーシャルという監督は、映画人として一体何をやりたいのか、という気がする。これは映画ファンとしての私の、本当に素朴な疑問である。観客に夢を見させるのが映画監督の仕事ではないのか。主人公にばかり夢を見させてどうしようというのか。

 歌や踊りによってすべてを語るのがミュージカル映画である。なぜ歌ったり踊ったりするかと言えば、音楽を通してしか到達することのできない真実というものがあるからである。ミュージカル映画が最も雄弁に語り得る場面で、しかし、マーシャルは「現実」に語らせてしまう。『NINE』を観ながら私が何度も思ったのは、“これ、ミュージカル場面、要らなくね?”ということだ。クロスカッティングで並行展開するミュージカル場面を削除し、ドラマ部分だけを抜き出して構成しても、基本的に『NINE』の物語は立派に成立するはずである。ミュージカル場面がなくても成立する映画など、もはやミュージカル映画ではない。鑑賞中、私は主人公の退屈な幻想をすっ飛ばして、さっさと話が先に進んでくれることだけを願っていた。

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『NINE』──娼婦サラギーナ(ファーギー)による「Be Italian」

 『NINE』には、『8½』を安易になぞってコピーしたような場面が山ほど登場する。愛人カルラとの密会、枢機卿との会見、海辺で踊るサラギーナ、妻ルイザとの口論、形だけのスクリーン・テスト……。挙げ句の果てには、グイドが主演女優クラウディアをオープンカーで深夜のローマへ連れ出し、この展開はもしや……というところで、案の定、最後にトレビの泉(を思わせる噴水)が現れて、“そりゃ『甘い生活』だべ!”と観客に突っ込ませるギャグのような場面まで出てくる。露骨にニーノ・ロータ風のスコアも頂けない。一応、オマージュのつもりなのだろうが、これなら単純にフェリーニ作品を観た方がいいに決まっている。何でもかんでも“オマージュ”と言えば許されると思ったら大間違いである。

 中でも、サラギーナが踊る海辺場面の酷さは特筆ものだ。もともとミュージカル的だった場面をそっくり再現した上、そこに新解釈のミュージカル場面を並列させているので、どちらに意識を集中すればいいのか分からない。しかも、新たなミュージカル場面は“現在のグイドが夢想する幼少期のグイドの夢想”として扱われるので、まどろっこしいことこの上ない。結局、「幻想」同士が相殺して共倒れのようなことになっている。トム・ウェイツも真っ青のジャンク・サウンドに乗せてエドラ・ガーレが尻を振るオリジナル版の破壊的インパクトに全く及んでいないことは言うまでもない(全寮制のカトリック学校に通う9歳の少年にとって、売春婦はあのようにどこまでも化け物じみた存在でなければならない)

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『8½』と『NINE』の女たち──左から、カルラ、ルイザ、クラウディア、サラギーナ

 フェリーニ・ファンとして言わせてもらうと、『NINE』はそもそも、役者の顔からしてお話にならない。『8½』に限らず、フェリーニ作品に登場する人物たちは、多くが漫画的、見せ物的で、画面に出てくるだけで強烈に面白い。そのせいで観客は、『8½』においても、登場人物の多さや、ドロドロと重くなりそうな人間関係にも辟易することなく映画を楽しむことができる。むしろ、登場人物が増えれば増えるほど、主人公がドツボにハマればハマるほど面白くなる。戯画的な人物造形は、フェリーニの話術の最大の特長のひとつである。それは、例えば噺家が、何でもないような話をデフォルメして膨らませ、抱腹絶倒のネタに仕立て上げるのとよく似ている。フェリーニは本当に天才的な大ボラ吹きである。

 それに較べ、現実的で小綺麗な顔をした役者たちが同じ物語を演じる『NINE』は、登場人物の多さが気になり(『8½』より遙かに少ないにもかかわらず!)、グイドの女性関係にもドロドロとした重苦しさばかりが付きまとう。普通に考えて、女好きの映画監督がスランプに陥る話など大して面白いわけがないのだ。“話にならない”とは、まさにこのことである。

 グイド役のダニエル・デイ=ルイスは、時に存在が耐えられなくなるほど軽みに欠ける。おバカな愛人カルラ役のペネロペ・クルスは、あざとさばかりが鼻につく(ペネロペは完全にミスキャスト。むしろ、彼女はルイザ役向き。ミュージカル場面は頑張っているが、“エロいダンスをするペネロペ”が観られるという以上の価値はない)。妻ルイザ役のマリオン・コティヤールは、つまらない女房を本気でつまらなく演じている(ここまで『8½』を模倣しておきながら、彼女に黒縁メガネを掛けさせなかったのはなぜ?)。クラウディア役のニコール・キッドマンは年取り過ぎ(適役だとは思うが)。サラギーナ役のファーギーは問題外(但し、これは貧乏クジ。オリジナルが凄すぎる。むしろ、ここはエイミー・ワインハウスを使いたい)。記者ステファニー役のケイト・ハドソンは、あまりにも普通(役自体もつまらない)。特別出演的なソフィア・ローレン(良くも悪くも若過ぎ!)は出てくるだけでOKとして、女たちの中では、グイドの相談役(第二の母親役)リリーを演じたジュディ・デンチが、キャラ的にもルックス的にも唯一まともに面白いか。彼女は“007”シリーズの“M”である。女性関係で身動きできなくなる“現実版ジェイムズ・ボンド(あるいは、マザコン版ジェイムズ・ボンド)”を描いた映画と考えれば、『NINE』も少しは面白く観られるかもしれない。

 個人的には、『8½』で最も魅力的な登場人物の一人、魔術師モーリスが描かれていないことにも不満を覚えるが、存在そのものがファンタジー的なあのキャラクターは、実際、ロブ・マーシャルの力では劇中に登場させることすらできなかったように思う。

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『NINE』──登場人物たちが主人公を見守る最終場面

 劇場で鑑賞中、数々の気の抜けた再現を居たたまれない気持ちで眺めながら私が考えていたのは、『8½』後半の最大の見もの、すなわち、女性関係に悩まされた末にグイドが創り出すハーレムと、放棄された巨大セットで展開されるクライマックスがどう処理されるのか、ということだった。

 まず、ハーレム場面はあっさりカット。そして、なんと、巨大セットでの大団円もなし。グイドがスタッフたちに事情──映画の構想が何もないこと──を野暮ったく説明し、映画製作はそのまま打ち切られる。この一連の場面のつまらなさはどうだろう。そして、『NINE』という映画もそのまま野暮ったく終息する……かと思いきや、実は、最後の最後にちょっとした仕掛けが用意されていた。

 映画が放棄された後、物語は2年後へ飛ぶ。すべてを失って無為な日々を過ごすグイド。別れた妻ルイザは、女優として映画界に復帰し、新たな人生を送っていた。グイドは自分の愚かさを反省し、自分にとってルイザがいかに大切な存在であったかに気付く。友人のリリーに励まされ、彼は自分の正直な心情を映画に託すことになる……。

 創作意欲が湧いてきたグイドを、9歳の少年グイドが連れに来る場面、また、チネチッタで再び映画を撮り始めるグイドの背後に女たちが次々と現れる場面では、「現実」と「幻想」の境界が消えている。おお、ロブ・マーシャル! この一連の最終場面を観ながら、私は──『8½』の大団円、巨大セットから幕が取り払われ、自分の人生のすべての登場人物たちが一斉に現れる瞬間の感動を反芻していたせいもあるが──ようやく、ほんの少しだけ、心が動いた。やはり、観客に直接的に訴えかけるのは、このように「現実」を乗り越えて、ありのままに真実を語る場面である。

 しかし、時すでに遅し。ここへ来るまでに、映画『NINE』は、『8½』の見苦しい再現と、無駄な歌と踊りで、上映時間の9割以上を浪費してしまっていたのである(ちなみに、最後は『インテルビスタ』風)

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『8½』──登場人物総出演のフィナーレ

 『シカゴ』と同じく、『NINE』が最終的に語ることも、オリジナルの『8½』とは随分と違う。『NINE』は、結局のところ、女たらしで独りよがりな二流映画監督の凡庸な悔恨物語でしかない。

 一方、フェリーニが『8½』で最後に語るのは、もっと普遍的で大きなことである。この映画を“難解”と感じる人もいるようなので、野暮を承知の上、簡単に解説しておくことにしたい。

 『8½』のクライマックスでは、主人公グイドの人生に関わった人々が大集合する。それは非常に祝祭的で、儀式めいた光景である。そこには、自分の妻、愛人、両親、友人、知人、同僚、枢機卿からサラギーナに至るまで、ありとあらゆる人々の顔がある。もちろん、現実にはあり得ない、極めて映画的な幻想内イベントには違いないのだが、実は、私たちの生涯では、これに限りなく近いイベントが、たった一度だけ実現することがある。自分の葬式である。

 葬式では、生前に自分と関わりのあった人間が一堂に会する。一般的に両親や愛人までもが参加する確率は低いだろうが、そこでは、自分の人生における登場人物たちが、可能な限り勢揃いすると言っていい。残念ながら、死んだ自分が彼らの姿を目にすることはないし、彼らに言葉をかけることもできないわけだが、もし仮にそれが可能だったとしたら、どんな気持ちがするだろうか。一体、彼らに何を伝えたいだろうか。

 先日、たまたま新聞記事で、“生前葬”を行ったある老女の話を目にした(朝日新聞'10年4月7日夕刊、連載「弔い 縁ありて」第4回)。“生前葬”とは、文字通り、自分の生きているうちに行う自分の葬式のことである。甲状腺癌の手術を受けて自分の死期を悟ったその女性──川端千鶴子さん──は、'05年、80歳の時に大阪のホテルで自分の生前葬〈感謝とお別れの会〉を開いた。会社の元同僚や友人らが40人ほど集まった会場では、ビデオで“故人”の生涯が振り返られ、参列者たちと最後の挨拶が笑顔と共に交わされたそうだ。その女性は語っていたという──“人生のすべてが、いとおしいものに思えてきた”。それから1年半ほどして、彼女はこの世を去った。

 『8½』の最終場面で語られているのは、恐らく、この80歳の女性の心境に極めて近いことである。主人公グイドは、実際、擬似的に死を経験することで、その境地に辿り着く。そこでは、あらゆる人々が愛おしく、自分にとってかけがえのない存在であり、そして、自分の生きている混乱は、忌むべきものではなく、むしろ、抱擁すべきものとなる。“人生は祭だ、共に生きよう”という簡潔な台詞。“人生”“混乱”“祭”は、すべて同義である。主人公は、最後に妻の手をとってその祭に参加していく。誰もいなくなった広場からサーカスの楽団が静かに退場していく最終カットには、人生という祭の儚さと、同時に、映画という夢の儚さが見事に表れている。生きて在ることの単純な歓びを、これほど鮮やかに力強く語った映画を私は他に知らない(一体どうしてこれが“難解”なのだろう? すべて見たまんまではないか)

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『NINE』の女たち(アニー・リーボヴィッツ撮影。“グイドなんか放っといて、あたしたちだけの映画にしない?”とかいう会話が聞こえてきそう。映画よりこの1枚の写真の方が遙かに魅力的。このまま彼女たちをペドロ・アルモドバルに丸投げしたい)

 『NINE』は、あらゆる意味において、『8½』とは別物である。正直、比較するのも憚られる。散々豪華キャストを集めておいて、ロブ・マーシャルは一体何をやっているのか。物語を主人公の女性関係に絞った点はいいとしても、自業自得で落ちぶれた末、簡単に泣きベソをかくようなマザコン男を、どうしてあれだけの女たちが揃って引き立てなければならないのだろう。

 『8½』には、主人公グイドが女性問題に悩んだ挙げ句、自分を取り巻く女たちが皆で仲良く暮らすハーレムを夢想する、バカバカしくも男の共感を誘う出色のシークエンスがある。マーシャルには、あの客観性とユーモアが致命的に欠けている。『NINE』は結局、ロブ・マーシャルが自分のために作った、何の面白味もない、純粋に身勝手なハーレムに過ぎない。女たちによる歌と踊りは、つまり、マーシャル自身が楽しむための単なる余興なのである。

 人々が夢を見づらくなり、現実の出来損ないのような映画が量産されるようになって久しい。そういう時代に、ミュージカル場面を明確に「幻想」として扱うロブ・マーシャルの映画が当たりを取った。映画は何よりまずビジネスであるから、観客が納得して喜ぶものを見せようというマーシャルの創作姿勢は、ある意味、正しい。この時代に敢えて商業的にリスキーなミュージカル作品を撮ろうという彼の熱意も評価するべきだろう。しかし、私は映画ファンとして、ロブ・マーシャルという映画人をどうしても認める気にはならない。

 100年以上にわたる映画の歴史は、人が“夢”を作り出す試行錯誤の歴史であり、その最新の成果('10年現在)が、例えば、ジェイムズ・キャメロンの3D映画『アバター』であったりするわけである。映画監督には、“よし、おまえらに最高の夢を見させてやる”という強い心意気と志がなくてはならないと思うし、また、そうであって欲しい。「現実」と「幻想」を執拗に区別し、ミュージカル映画が最も雄弁に語り得るミュージカル場面においてさえ、言い訳のように「現実」を挿入するロブ・マーシャル。結局、彼のやっていることは、現実に対する映画の敗北を認めているに等しいのではないか。私はもう、ロブ・マーシャルが作る夢を見たいとは思わない。


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(*1)マイケル・ジャクソンこそは、最後の正統派ミュージカル映画スターだった。通常のドラマ場面からミュージカル場面への飛躍を受け付けない観客は多いが、例えば、マイケルがいきなり不良たちと踊り始める、恋人に向かって歌い始める、ゾンビたちと踊り始める、あるいは、酒場の客たちと踊り始めたりすることに、文句をつける人間はいるだろうか? いないはずである(中には断固としてそれを認めない筋金入りのミュージカル嫌いもいるかもしれないが)。なぜなら、みんな彼が歌って踊るのを観たいからである。ミュージカル場面になれば、“キター!”という感じで盛り上がる。昔のハリウッドには、彼のように、純粋に歌や踊りで観客を魅了できる役者がたくさんいた。現在のミュージカル映画は、役者自身の芸能ではなく、映像的な演出や編集で魅せる作品が主流だが、マイケルのようなスターさえいれば、多分、今でも観客はミュージカル映画の突飛な展開にも普通についてくる。マイケル・ジャクソンの場合は音楽ヴィデオだから突然歌い踊り始めても許される、と考える人がいるかもしれないが、音楽ヴィデオも映画も根は一緒で、単に長さが違うだけの話である。ミュージカル映画を受け付けない人には、むしろ、長編MVのつもりでミュージカル映画を観ることをお勧めする。そして、是非、映画の底抜けの面白さに気付いて欲しいと思う。人生と同様、映画は楽しければ何でもいいのだ。

(*2)映画とは夢である──このことを極めて意識的、かつ、明快に語った映画として、ウディ・アレン『カイロの紫のバラ(The Purple Rose of Cairo)』(1985)を挙げておきたい。これとセットで、同年のフェリーニ作品『ジンジャーとフレッド(Ginger et Fred)』もお薦めだ。人々が容易に夢を見なくなった時代に、いずれもフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースに言及しながら、映画の黄金時代を偲ぶ。オマージュの捧げ方の見本のような作品でもある。

(*3)そのままでは映画化困難なように思われる舞台版『CHICAGO』だが、私は、やればできると思う。ミュージカル場面を“主人公の見ている幻想”ではなく、舞台版と同じく、“観客の見ている幻想”として処理する方法はいくらでもあるはずである。映画の虚構性を観客に明示することになるので、ナンセンスなコメディ映画のようなノリになると思うが。例えば、それまで普通に演技していた登場人物(監督自身でも可)が、『古畑任三郎』終盤の田村正和のように、物語の流れを中断してカメラ目線で曲紹介MCを行う光景、あるいは、歌い終わったビリー・フリン役の俳優が、“いやあ、今のはアカデミー賞モノのパフォーマンスだったな”と自画自賛する台詞をボソリと呟いたりする光景を思い浮かべて欲しい。ギャグ的なまでに非現実的な演出を行えば、非ミュージカル映画ファンも引き込むことができるはずだ。もちろん、それで芸術的にも商業的にもマーシャル版ほどの成功作になるとは限らないが、『CHICAGO』の映画化としては私はそれが正攻法だと思う。



フェリーニかく語りき

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「私にとって、ネオレアリズモは偏見なしに現実を見る方法、現実と私自身とのあいだに介入する因習なしに現実を見る方法である。先入観を持たずに現実に直面し、率直に現実を見つめる──どんな現実であれ──単に社会的な現実だけでなく、精神的な現実も、形而上的な現実も、人間のなかにあるすべてのものを……。個々の人間に関する物語を語りながら、私はいつも個々の真理を示そうと努めている。
 リアリズムという言葉はよくない。ある意味では、すべてがリアリスティックだ。私は想像と現実のあいだに境界線を引かない。想像のなかに多くの現実が見える。あらゆることを、一つの普遍的な、妥当なレヴェルにきちんと整理することは私の責任ではないと思う。驚きに対する私の受容力には際限がないので、なぜ、驚かされまいとして身を守るために似非合理主義的なスクリーンをつくらなければならないのか、私には理解できない」(『私は映画だ 夢と回想』/岩本憲児・訳/フィルムアート社/1978)

※“ネオレアリズモ”は、単純に“映画”と変換してお読み頂きたい。“似非合理主義的なスクリーン”とは、要するに、ロブ・マーシャルが作るような映画のことである。

「多くの人たちが『8½』は自叙伝的作品であると評した。それはそうかもしれない。たとえ私がヒラメの一生を物語るとしても、ある意味ではそれは私の自叙伝なのだから。しかし、それでいて私は、こんどの作品(『8½』)が完全な幻想の所産であり、私の過去の作品の中で、私の個人的な体験との関連がもっともすくない作品であると断言できるのである。私はこの作品のなかに、私が体験したこと、聞いたこと、想像したことを何でも少しずつ投入した。これは私自身の側からの素朴な願いであるかも知れないが、この映画が全く自由な気持ちでながめられ、この作品では私が完全なおとぎ話を語っており、スクリーンの上で展開されること以外には何の意味もないものであることを認めてくれるものと思いたい」(『8½』初公開時プレス/'83年日本再公開時パンフレット)



※当ブログの“Dance to Jazz”というカテゴリーは、もともと20世紀前半の黒人ダンサーを紹介する目的で作ったものだったが、今回から“Dance to Jazz and All That Jazz”と改め、その他のミュージカル関連ネタも含めることにした。

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