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誰のせいでもありゃしない




 “誰のせいでもありゃしない みんな俺ら(おいら)が悪いのか”という尾藤イサオの歌唱でも知られる「Don't Let Me Be Misunderstood(邦題:悲しき願い)」。尾藤版の元になった'65年のアニマルズ版が有名だが、ご存じの通り、この曲を最初に歌ったのはニーナ・シモンである。ニーナのオリジナル版はアルバム『BROADWAY-BLUES-BALLADS』(1964)に収録され、同年にシングル発売もされたが、ヒットには至らなかった。

 テンポを上げて激しくシャウトするアニマルズ版は、他者とのコミュニケーション不全や、社会の無理解・不寛容に対する若者の苦悩や苛立ちが滲むロック調の解釈で、そこが当時ヒットした大きな理由であるように思われる。それを参照した尾藤イサオ版(作詞:タカオカンベ)は更に激しさを増し、ほとんど“逆ギレ”と言ってもいい破れかぶれな恋煩いの歌になっているのだが(“誰のせいでもありゃしない みんな俺らが悪いのさ(Nobody's fault but mine)”ではなく、“悪いのか(but is it mine)”という疑問文で帰結する破綻ぎみの文脈に“俺ら”の混乱と苛立ちがよく表れている)、しかし、元のニーナ版はそれらとは大きく趣が異なる。

 私がこの歌を知ったのは'86年頃、FMラジオ番組のカヴァー曲特集で、アニマルズ版とエルヴィス・コステロ版を一緒に聴いたのが最初だったと思う(私の家には父親が大昔に買ったアニマルズ「朝日のあたる家/悲しき願い」のEPもあったりした)。翳りのある哀切なメロディは当初から好きだったが、私がこの歌の深い魅力に気付いたのは、それからずっと後、ニーナ・シモン版を聴いた時のことである。「Don't Let Me Be Misunderstood」は、決して若者のフラストレーションを歌ったものではなく、元々は、老若男女の誰もが共感できる、とてもシンプルなことを歌った普遍的かつ非常に内省的な歌だった。

 今回は、この歌が元来どういうものだったか分かるよう、オリジナルのニーナ版の歌詞をできるだけ簡潔に和訳することにしたい。同時に、数多く存在するカヴァー版の中から、4人の女性歌手による解釈を紹介する。


 Don't Let Me Be Misunderstood
 (Bennie Benjamin/Sol Marcus/Gloria Caldwell)
 
 Baby, you understand me now
 If sometimes you see that I'm mad
 Don't you know no one alive can always be an angel?
 When everything goes wrong you see some bad
 
 ねえ わかってちょうだい
 私だってカッとすることがある
 誰でもいつもいい人ではいられないでしょう?
 何をやっても駄目なときは調子が狂う
 
 But I'm just a soul whose intentions are good
 Oh Lord, please don't let me be misunderstood
 
 でも決して悪気があるわけじゃない
 ああ どうか誤解されませんように
 
 You know sometimes, baby, I'm so carefree
 With a joy that is hard to hide
 Then sometimes again it seems that all I have is worry
 And then you're bound to see my other side
 
 時には悠々自適で
 悦びに溢れている私
 かと思えば 神経をすり減らし
 別人のようになってしまう私
 
 But I'm just a soul whose intentions are good
 Oh Lord, please don't let me be misunderstood
 
 でも決して悪気があるわけじゃない
 ああ どうか誤解されませんように
 
 If I seem edgy, I want you to know
 I never meant to take it out on you
 Life has its problems and I get more than my share
 But that's one thing I never mean to do
 'Cause I love you
 
 刺々しく感じても わかってほしい
 つらく当たるつもりはないの
 人生は問題だらけで とても手に負えない
 でも本気なんかじゃないの
 私はあなたを愛しているもの

 Oh baby, I'm just human
 Don't you know I have faults like anyone?
 Sometimes I find myself alone regretting
 Some little foolish thing, some simple thing that I've done
 
 私だって普通の人間よ
 皆と同じように欠点があるのよ
 自分のしてしまった些細なことや つまらないことを
 くよくよ後悔したりするのよ
 
 'Cause I'm just a soul whose intentions are good
 Oh Lord, please don't let me be misunderstood
 Don't let me be misunderstood
 
 決して悪気があるわけじゃない
 ああ どうか誤解されませんように
 誤解されませんように
 
 
 ニーナ・シモンのオリジナル版には、アニマルズ版や尾藤イサオ版に感じられるような苛立ちや押しつけがましさが全くない。“お前は本当の俺を分かっちゃいない! どうして分かってくれないんだ!”と一方的に叫ぶのではなく、冷静に我が身を省みながら、誰に向かって訴えるわけでもなく、“どうか誤解されませんように”と(天に向かって)静かに懇願するような歌である。

 尾藤版のイメージもあり、“you”を恋愛対象と捉える人も多いと思うが、それは自分の親友や肉親でもあり得る。苛々して、大切な人に向かってついキツいことを言ってしまったり、つっけんどんな態度をとってしまうことは誰にでもある。後になって落ち着いて考えた時、人は自分の言動や行動を深く後悔する。そういう時の寄る辺のない心情を表現したのが「Don't Let Me Be Misunderstood」という歌なのである(実生活においては“誤解されませんように”と願うだけでなく、実際に態度で示すこと──素直に謝るなど──が重要になるわけだが)

 ニーナ・シモン版が発表された'64年はワシントン大行進の翌年に当たり、アメリカで公民権法が制定された年でもあった。公民権運動家でもあったニーナが“私だって普通の人間よ”と歌う時、この歌は正当な権利を求める黒人たちの心情を反映したメッセージ・ソングとしても響く。人種間の摩擦が広がり、人々が過激な(“edgy”な)行動に陥りやすかった当時、人々の頭を冷やさせるような、こうした内省的な歌をニーナが発表していたことは注目に値するだろう。翌年、それがイギリスの白人青年たちによってかっぱらわれ、怒れる若者の歌として「(I Can't Get No) Satisfaction」(1965)などと一緒に聴かれるようになったというのは何とも皮肉な話だが……まあ、別に彼らが悪いわけでもない。そういう時代だったというだけの話で、それは結局、“誰のせいでもありゃしない”のである。

※黒人音楽ファンにはお馴染みのライター/翻訳家の泉山真奈美さんが三省堂サイトで執筆している“歴史を彩った洋楽ナンバー〜キーワードから読み解く歌物語〜”という連載の第68回('13年2月6日)で、ニーナ・シモン版「Don't Let Me Be Misunderstood」が取り上げられている。公民権運動の文脈でこの歌が解説されているので、興味のある方には一読をお勧めしておく。残念ながら歌詞対訳はないが、“曲の要旨”なる名目で、限りなく対訳に近い“説明”も掲載されている(泉山さんは私より遙かに高い英語力を持った人だと思うが、“I get more than my share”以下の解釈──“あたしは過分なほどに成功を収めてるわ。でもね、あたしが望んでこうなったわけじゃないのよ。あんたを愛してるから、そのことであんたを見下そうなんて思っちゃいない”──は誤読ではないか。“share”は“problems”の取り分のことで、“that's one thing”の“that”は“get more than my share”ではなく“to take it out on you”もしくは“edgy”を指している。多分、公民権運動家としてのイメージが頭から離れなかったのだろう。基本的にこの歌は公民権運動やニーナの実人生とは関係ない)。


FOUR WOMEN'S UNDERSTANDING

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 シンディ・ローパーによるスタンダード/ポピュラー・ソングのカヴァー集『AT LAST』(2003)収録のカヴァー版。静かなピアノ伴奏をバックに、シンディがあの真っ直ぐな歌声で突き刺すように歌う。サビ部分だけに登場するロック・ギターの重さも印象的。ニーナ版の孤独感とアニマルズ版の激情をミックスしたような緊張感溢れるカヴァーだ。ライヴではフルバンドで演奏され、よりロック色を強めた。

 『AT LAST』は素晴らしいアルバムだが、最高に素晴らしかったのは、このツアーのニューヨーク公演を収録したライヴDVD『LIVE...AT LAST』(2004)である(元NPGの黒人女性ギタリスト、キャット・ダイソンも参加。「Change Of Heart」がスゴい)。当時、それを観て感動のあまり号泣してしまった私は、DVD発売直後に実現した同ツアーの来日公演も観に行った。私が観た'04年6月21日の渋谷公会堂のステージで「Don't Let Me Be Misunderstood」は披露されなかったが(『SHINE』というお蔵入りアルバムが同時期に日本で独占発売されたことに伴い、セットリストがかなり変更されていた)、その日は客電が点いて完全終演した後、シンディが観客の大声援に応えて再登場し、2曲を歌うという正真正銘のアンコールがあった。レパートリーに入っていなかった「What's Going On」(ステージ上でしばしバンドと打ち合わせをしてから演奏が始まった)と、『AT LAST』収録のモーリス・ウィリアムズ&ザ・ゾディアックスのカヴァー「Stay」を客席に下りて熱唱してくれた時の感動は10年経った今でも忘れない。


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 カナダ出身のジャズ/ソウル歌手、ケリーリー・エヴァンスの3rd『NINA』(2010)はニーナ・シモンのカヴァー集。ギター、ベース、ドラムの小編成をバックに代表曲を涼やかに歌う。「Don't Let Me Be Misunderstood」は珍しいボッサ・ジャズ調のアレンジ。彼女は『I PUT A SPELL ON YOU』(1965)が好きらしく、同アルバムから4曲も取り上げている。ジャケの印象通り、上品で落ち着いたニーナ解釈が楽しめる佳作。元のニーナ版と較べるとさすがに軽さは否めないが、ニーナ作品に対する思い入れが伝わってくる丁寧な歌唱は心地よい。エリカ・バドゥとも通じる滑らかなジャズ・テイストの中にあって、「Sinnerman」でのコシのある熱唱が確かな歯ごたえを感じさせる。

 ケリーリー・エヴァンスに興味を持った人には、むしろ次作の4th『I REMEMBER WHEN』(2013)がお薦めだ。ヴィンテージ・ソウル感が漂う自作曲の他、「If I Was Your Woman」(グラディス・ナイト&ザ・ピップス、アリシア・キーズ)、「Lose Yourself」(エミネム)、「Ordinary People」(ジョン・レジェンド)、「Amazing」(カニエ・ウェスト)といったネオ・ソウル/ヒップホップ系の有名曲が独自の解釈で取り上げられ、『NINA』よりも遙かにケリーリーのニーナ・シモン的な個性が光っている。仏ラップ・グループ、セクシオン・ダソーの「Desole」に加え、ストロマエ「Alors On Danse」をオリジナル英語詞&アコースティック・サンバ調で料理した「And So We Dance」の大胆不敵なカヴァー・センスと選曲眼はまさにニーナ譲り!


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 近年はメイシー・グレイ化が進むオランダのネオ・ソウル歌手、サブリナ・スタークの3rd『OUTSIDE THE BOX(型破り)』(2012)に収録のカヴァー版。オリジナル版の雰囲気を保ちながら、現代的なR&B感覚を注入して新鮮に蘇らせたストレートなアップデイト版。もともとニーナ似の歌声と音楽性の持ち主ゆえ、さすがのハマり具合だ。この3rdは'14年6月にSweet Soul Recordsから別ジャケで日本盤も発売された(お薦めは'08年の1stだが……)

 サブリナ・スタークに関しては、ビル・ウィザーズのカヴァー集『LEAN ON ME: THE SONGS OF BILL WITHERS』(2013)が出た時に記事を書いたので、詳しくはそちらを参照してもらいたい。ビル・ウィザーズのカヴァー集でサブリナが組んでいたメトロポール・オーケストラ(オランダ国営放送の老舗楽団)は、'14年にローラ・マヴーラとも共演することに。


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 真打ちは何と言ってもこの人、ミシェル・ンデゲオチェロ。彼女のニーナ・シモン作品集『POUR UNE AME SOUVERAINE: A DEDICATION TO NINA SIMONE』(2012)の冒頭を飾る一撃必殺のカヴァー版。シャーデー「Still In Love With You」に激似の低血圧ブルース感覚、シャーデーを更に気怠くしたような、最早やる気があるのかないのか分からないミシェルの脱力ヴォーカルには本当に衝撃を受けた。この孤独感、親密感はどうだろう。誰に訴えるわけでもなく、独り言のように寂しく呟くこのミシェル版こそ、「Don't Let Me Be Misunderstood」という歌の正しい解釈であると私は確信する。オリジナルのニーナ版と同じ域に達しているカヴァー版は、私の知る限り、これだけである。

 ミシェル・ンデゲオチェロのニーナ作品集は本当に大傑作である。先述のケリーリー・エヴァンスによるカヴァー集がニーナに対する“私的なラブレター”といった趣であるのに対し、こちらはニーナ・シモンという音楽家の精神を再び世に突きつける声明文のような趣を持つ。時空を超えてニーナの魂と共振し、ニーナ楽曲をニーナ的な自由さと包容力で換骨奪胎した収録曲には、いずれも凡百のカヴァー版とは一線を画する説得力と深みがある。ニーナ作品に挑むに当たって明らかに役不足である自身のヴォーカルを、複数の歌手を適材適所でフィーチャーすることで補い、ニーナ・シモンのヴァーサタイルな魅力まで表現したプロデュース能力も素晴らしい。ミシェル・ンデゲオチェロの最高傑作と言ってもいいのではないだろうか。

 先日('14年7月14日)、新作『COMET, COME TO ME』を引っ提げてビルボードライブ東京で行われた来日公演でも、ミシェルは「Don't Let Me Be Misunderstood」を歌ってくれた(ニーナ・シモンのカヴァー集からは計4曲を披露)。その歌唱は、やっぱりやる気があるのかないのか分からない、まるで瞑想でもしているような脱力ミシェル節だった。


四門亭へ行こう

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シモンの当て字は色々あるが、東西南北どこへも通じるという意味で“四門”としてみた

 ニーナ・シモンという人は、とんでもなく美味い料理を出す下町の定食屋の女将のような人だと思う。一体どんな食材を使っているのか、どういう出汁の取り方をしているのかよく分からないのだが、とにかく色んなものが入っていて、出てくる料理はどれも文句なしに美味い。四門亭のメニューには絶対に外れがない。誰でもぶらっと店に入れる敷居の低さも素晴らしい。このおばちゃん──割烹着がよく似合う──の料理さえあれば、他に何も要らないと思える。

 公民権運動と絡めて語られることも多いが、この人は何よりまず、純粋にいい歌、いい音楽を聴かせる人だった。ブラック・パワーが叫ばれた時代にあっても、この人は黒人性を遙かに超越したところで音楽を紡いでいた。それは彼女の音楽人生において、一貫して変わらないことだった。

 最後に、ニーナ・シモンの自伝本の中から、彼女が自分自身の音楽について語った部分を引用しておきたい。四門亭の焼飯を食べて、それがチャーハンであるかピラフであるかリゾットであるか問うことは無意味である。それはどこの国の料理でもない。おばちゃんの作る焼飯は美味い──そこで話は完結すべきなのである。

「音楽評論家たちが私の音楽がどのジャンルに属するか議論し始め、なんとかどこかに収めようとした。私はクラシック・ピアノの技術を用いてポピュラーをクラシック音楽のスタイルで演奏し、そこにカクテル・バーのジャズの影響も取り混ぜていたのだからジャンルを決めるのは難しいことだったに違いない。しかも黒人霊歌や子供の歌なども取り上げていたので、そういう選曲は自動的にフォーク・ミュージックの動きに連なるものと見なされた。こういう具合に何でも取り入れた音楽だったために評論家たちはずいぶん困ったことだろうが、それは同時に、私がジャズやフォーク、ポピュラー、ブルースなどのファンのみならず、クラシックの愛好家たちをも巻き込んで幅広く支持を得たことを意味していた。
 結局、私は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることになった。私にとって“ジャズ”とは考え方や生き方のことだった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方など、アメリカの黒人がすることすべてを意味した。つまり“ジャズ”は黒人全体を見渡した場合のある一面であり、その点では黒人である私をジャズ・シンガーと呼んでも問題ないとは思う。だが、ほかのあらゆる点で私はジャズ・ミュージシャンではなかった。
〈ポーギー〉のせいで人はよく私をビリー・ホリデイと比べたがったが、私はそれが大嫌いだった。あの曲はレパートリーのひとつに過ぎなかったし、私の生演奏に触れたことがある人なら彼女と私が全然違うタイプであることぐらいわかるはずだ。腹が立つのは、そういう人が私と彼女をただの黒人として一括りにして見ることである。もし私が白人だったら誰もビリー・ホリデイを引き合いには出さなかっただろう。それに他の一般的なジャズ・シンガーたちと一緒にされること自体、嫌だった。私は音楽的に他の誰とも違うものを目指していたし、それなりに彼らよりも優れていたはずだからである。私が白人の考える黒人ミュージシャンのカテゴリーにうまく当てはまらないからといって、とりあえずジャズ・シンガーと呼ぼうというのは私の音楽的な背景をいっさい無視するものだ。一種の人種差別である。『黒人だからジャズ・シンガーだ』と決めるようなものだ。このことには深く傷ついた。ちょうどラングストン・ヒューズが『素晴らしい黒人詩人だ』と呼ばれて傷ついたように。ラングストンは素晴らしい詩人だった。そこで文章は完結すべきである。肌の色とは関係なく、彼という人間が評価されなければならないのだ」(『ニーナ・シモン自伝 ひとりぼっちの闘い』/鈴木玲子訳/日本テレビ/1995)


※おばちゃんが晩年に料理したプリンス「Sign 'O' The Times」の試食リンクを張りたいのだが……YouTubeに上がっていないので、『A SINGLE WOMAN』を買って食べてください(賄いで作っただけなのに、これがまた……)。



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