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山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 1)

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 シャーデー・アデュがナイジェリアのイバダンで生まれた'59年1月16日の明くる日、地球の反対側の東京で、ある不世出の女性歌手が誕生した。

 山口百恵('59年1月17日生まれ)。
 
 2人が生まれた時刻は不明だが、日本とナイジェリアの時差8時間を考慮に入れると、両者はほとんど同時にこの世に生を受けたようにも思われる。'80年10月の引退から29年を経て、かつて「山口百恵」と呼ばれた女性は、'09年1月17日の今日、日本のどこかで50歳の誕生日を静かに迎えている。


 山口百恵(本名)。'72年10月15日、13歳で日テレのオーディション番組〈スター誕生!〉予選大会に出場。同年12月の決勝大会で準優勝し、ホリプロへ入社。翌年5月、14歳(中学3年)で歌手デビュー。同番組出身の森昌子、桜田淳子と共に“花の中3トリオ”と呼ばれて人気を博す。以後、歌手、女優、タレントとして、レコード、テレビ、映画、ドラマ、ラジオ、ステージなど多くのメディアで活躍。沢田研二、ピンク・レディーらと共に'70年代後半の歌謡曲黄金時代を担い、芸能界のトップスターの座に登り詰める。'80年3月7日、俳優・三浦友和との婚約、および芸能界からの完全引退を発表。同年10月15日、21歳で引退(11月19日、挙式)。
 実働期間、約7年半(オーディション出場から引退まで丸8年)。現役時に発表されたシングルは全32枚、アルバムは全22枚(ライヴ盤、ベスト盤を除く)。


 山口百恵は“伝説の歌姫”として、世代に関係なく今でも一般的に高い知名度を誇っていると思う。彼女の長男である三浦祐太朗(24歳)が、ロック・バンド、ピーキー・ソルト Peaky SALT のフロントとして歌手デビューし('08年11月)、ニュースになったのも記憶に新しいところだ。
 ただし、山口百恵の変わらぬ人気を支えるコアなファン層というのは、当時10~20代、現在40~50代になっているリアルタイム世代で(レコード会社のマーケティングも完全に彼らをターゲットにしている)、その作品が今の若い音楽ファンにも熱心に聴き継がれているかというと、残念ながらそうでもない。「いい日旅立ち」「プレイバック Part 2」といった代表曲は耳にしていても、若い世代の多くにとって、山口百恵という人物は、恐らくせいぜい“全盛期で潔く引退し、以後メディアに姿を現さない伝説のアイドル”でしかない。

 現役時代の彼女の姿を幼少期のテレビ体験の一部として辛うじて記憶する私個人に関して言えば、山口百恵は長いこと“なんとなく好きな人”というような存在だった。曲もなんとなく好きではあったが、私は単純に彼女の声、容姿、佇まい、雰囲気に漠然と魅力を感じていて、テレビの懐古番組の類で現役時代の映像を目にするたびに、自然と画面に引きつけられていた。音楽好きでありながら、それでも私が彼女の作品を長い間まともに聴こうとしなかったのは、“歌謡曲”というジャンルに対するつまらない偏見と、“アイドル歌手”の歌を聴くことに対する気恥ずかしさが原因と言っていい(基本的に私にとってそれらは聴くものではなく、耳にするものでしかなかった)。全く愚かなことだったと今にして思う。現在、私は完全に百恵ちゃんファンの一人と化している。

 “一億人の娼婦”、あるいは“菩薩”などとも形容された山口百恵。彼女が歌手として残した最良の作品群は、今の耳で聴いても十分に破格である。彼女が“伝説の歌姫”になった真の理由は、決してドラマチックな引退劇にではなく、単純に音盤の中にある。歌謡曲、アイドルだからと言って馬鹿にしてはいけない。黒人音楽ファンだろうと、ロック・ファンだろうと、あるいは男性だろうと女性だろうと、もしあなたが熱心な音楽リスナーであれば、山口百恵を聴かない手はないと思う。

 彼女の最もディープな表現の多くは、シングルではなく、アルバムの中にあるのだが、実際、そこには凡作、駄作も少なからず紛れている。少女アイドルとしてスタートし、テレビ、ラジオ、映画などの仕事をこなしながらの大量生産ゆえ、仕方のないことではあるが、7年半の歌手活動期間でシングル32枚、アルバム22枚という量を考えれば、その生涯打率が驚異的なものであるということは強調しておきたい。音楽ファンなら、彼女のアルバムは掘って決して損はない(実はサウンド・プロダクションの質もかなり高い)。

 さて、シングル32枚、アルバム22枚も聴いていられるか!という比較的若い世代(20~30代)の音楽リスナーのために、ここでは、手っ取り早く最高水準の山口百恵を満喫できる、素晴らしい2枚のCDを紹介することにしたい。リアルタイム世代でも、長年の百恵ファンでもない私ではあるが、飽くまでいち音楽ファンとして、“最強の山口百恵”への最短距離をここに示したいと思う。


山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童

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 山口百恵の最良の作品は、ほとんどが阿木燿子(作詞)+宇崎竜童(作曲)というソングライティング・チームによって生み出されている。また、このチームにとっても、名実ともに大きな飛躍となったのが山口百恵とのコラボレーションであり、両者はまさに切っても切れない関係にある。

 宇崎竜童('46年2月23日生まれ)は、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを率い、ご存じ「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975)などのヒットを飛ばしたロック畑の人間。作曲作品としては、ジェロ「海雪」(2008)も記憶に新しい。
 阿木燿子('45年5月1日生まれ)は、明治大学在籍中に軽音楽部で宇崎と知り合い、彼の頼みで詞を書いたことがきっかけで作詞家としての才能を開花させた。「港のヨーコ~」を始め、ジュディ・オング「魅せられて」(1979)、中森明菜「Desire -情熱-」(1986)など多くのヒット曲の作詞を手掛ける一方、文筆家、女優としても活躍する。
 2人は実生活でもパートナーであり、よく知られる長年のおしどり夫婦ぶりは、その作品クオリティの高さと併せ、余裕でアシュフォード&シンプソンに比肩する(ルックス的にも近いものがあるわけだが。殊に宇崎は、リーゼントで決めていないとニコラス・アシュフォードと区別がつかない危険性がある)。


少女アイドル時代

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 阿木+宇崎に出会うまでの百恵は、主に千家和也(作詞/浅丘めぐみ作品等)+都倉俊一(作曲/山本リンダ、ピンク・レディー作品等)のコンビによる楽曲を歌っていた。清純派でありながら、その歌は性への目覚め、セックスに対する憧れを露骨に仄めかすもので、彼女が持っていた少し大人びた雰囲気や独特の翳りとも相まって人気を呼んだ。“青い性”路線とも呼ばれるその頃の彼女のヒットには、「青い果実」(“あなたが望むなら 私何をされてもいいわ”)、「禁じられた遊び」(“惜しくない あなたが望めば何でも捨てる”)、「ひと夏の経験」(“あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ”)などがある。
 基本的にそれらはいずれも、フランス・ギャル「Les Sucette(アニーとボンボン)」(1966/ロリポップ・キャンディにフェラチオの意味を忍ばせた猥歌。セルジュ・ゲンスブール作)を生ぬるくしたような、オヤジ目線のアイドル歌謡である。セックスはいつの時代でも売り物になる。ギャルは歌詞の真意を知らずに歌っていたが、百恵には“女の子の一番大切なもの”が何を示すかくらいは分かっていた(“女の子の一番大切なもの”って何だと思います?というインタヴューの問いには、“まごころ”という答えで押し通していたようだが)。好奇の目に晒されながら、そのような子供騙しの(というか、子供すら騙せていない)歌を歌わされる彼女の姿は不憫とも言えるが、その歌唱や眼差しには、そうした同情を寄せ付けない不思議な真っ直ぐさがあった。

「『あなたが望むなら 私何をされてもいいわ』
 “青い果実”という歌の冒頭部分である。十四歳の夏も近い頃、事務所で『今度の曲だよ』と手渡された白い紙。期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。(中略)
 『こんな詩、歌うんですか』
 言ったか言わなかったかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。
 皆と違うように見られたら──幼い恐怖心と防御本能が私をためらわせた。
 そうはいっても私の躊躇など、ビジネスのシステムの中では何の意味も持たず、結局スタジオへ連れて行かれ、ひとりきりの世界へ閉じ込められてしまった。ヘッドフォンから流れてくるその歌のカラオケ、それに合わせて仕方なく歌った──つもりだったが、何故だかメロディーに乗せて歌ったとたん、さっきまでのためらいはすっかり消えていた。こんな歌──と思い悩んだ時から数時間しか経過していないというのに、私はその歌がとても好きになっていた」(山口百恵・著『蒼い時』/1980)

 どんな歌でも自分との共通項を探し、歌の中へ身投げするような彼女の歌手としての気質は、恐らく少女アイドル時代から一貫している。10代半ばの時点で、彼女の歌に決して後へは引かない、何か腹を据えたような気配があったことは、その生い立ちを知るとある程度納得がいく。


出生~歌手としての死

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 山口百恵は私生児として生まれ、5歳下の妹と共に貧しい母子家庭に育った。父親は時おり百恵の家を訪れていたが、彼には妻子のいる別の家庭が既にあった。百恵と妹の2人をしぶしぶ認知してはいたので、法的には父親だが、親としての責任はほとんど放棄していたようだ。百恵の母は内職をしながら、女手ひとつで幼い娘2人を養った。
 娘が芸能界に入ると父親は態度を一変させ、金銭目当てにその立場をことさら主張するようになり、時にはマスコミ相手に売名行為をするなど、百恵の周辺で勝手に立ち回るようになった(終いには母親に対して親権変更まで申し立てている)。彼は百恵にとって次第に悪夢のような存在と化していった。そんな父親との縁を、彼女は最終的に金銭で切ることになる。

 引退直前の'80年9月に出版された自叙伝『蒼い時』の中で、百恵は父親について強い口調でこう明言している。

「私には、父はいない。一つの肉体としてあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する」

 百恵が歌手を目指したこと(あるいは、中学一年の夏休みに学校の許可を得て新聞配達のバイトをしていたこと)は、家計を助けるため、という美談になりやすいが、本人はそれを否定している。むしろ本当の美談は、母子家庭の貧しい生活にもかかわらず、コンプレックスを抱くことも、屈折してグレることもない、真っ直ぐな普通の娘に彼女を育てた母親の努力と愛情にあるのだが、百恵の持つ精神的な強さ、思慮深さ、洞察力の鋭さ、あるいは、大人びた風情、独特の翳りといったものが、その決して幸福とは言えない生い立ちに、ある程度起因するものであることは間違いないように思われる。そしてそれは、正確な楽曲解釈に基づく彼女の歌唱、奥深い歌世界にも確実に反映されているだろう。

「歌手山口百恵の誕生を語る時、ほとんどの人が、ひとつの理由として経済的な状況から逃げるためだったのではないかと言う。
 歌手という職業に憧れたのは、小学校の高学年の頃だったろうか。憧れたといっても、金銭的な大きさに憧れたのではなく、幼い少女がお伽話のヒロインを夢見る、その程度の気持ちだった。
 歌が好きで、周りの何人かの人に『歌が上手ね』などと言われれば、私は歌手になるんだと思いこむ、そのくらい単純な発想だった。第一、小学生である私が、経済的な手助けなどできると思うはずもなかった」(『蒼い時』)

 “幼い少女がお伽話のヒロインを夢見る”ように、というのは、確かに歌手・山口百恵の起点だろう。歌手志願が経済的事情によるものでないことを強調するため、“その程度の(軽い、ありふれた)気持ちだった”としているが、恐らく彼女は、誰よりも強く“お伽話のヒロイン”になることを夢見た少女だったに違いない。そして、その決して普通などではない願望の強さこそが、天をして彼女に「歌手」という職業への道を与えしめた。

 彼女の場合、“お伽話のヒロイン”が必ずしも「歌手」である必要はなかったような気もする(要は、幸せになれればいい)。しかし、彼女はたまたま人よりも歌が上手く、また、偉いことに、ある時たまたまそのことに気付いた。そして何より、彼女は歌が好きだった(歌手を志すに際してはひどく当たり前の理由だが、これが優れた歌手の第一条件である)。そうして、“お伽話のヒロイン”はいつしか少女の中で具体的な像を結ぶようになった。歌手・山口百恵の物語は、自分がどうしようもなく抱え込んでいる喪失感、欠落感、飢餓感を埋めるための、探求の旅として始まったのかもしれない。そしてその旅は、まさしく王子様のような旦那(あるいは、“三浦さんの奥さん”という存在証明)を見つけることによって終わりを迎えるのである。

 百恵のような生い立ちの少女が必ず優れた歌手になれるわけではない。歌手・山口百恵の基盤を成す大部分は、結局、歌手としての天賦の才、としか説明できないのだが、天賦の才だけでも優れた歌手にはなれない。大事なのは、人間として(あるいは、女として)自分を表現へと駆り立てるモチベーションである。
 そして、山口百恵は明らかに体当たりでしか歌えないタイプの歌手だった。歌を演じるのではなく、歌を生きる。それは、自分の中にぽっかりと空洞のような部分(あるいは、誰かにならなくてはいけないような強迫観念)があってこそ可能なことだろう。

 彼女が歌手を辞めた理由はあまりにも明白である。仕事と家庭の両立が云々などでは決してない(本当に歌いたければ、歌えばいいのだから。旦那さんも協力してくれただろう)。仮に引退という選択肢がなかった場合、彼女ほどのステイタスと歌唱技術があれば、結婚後も職業歌手として立派にやっていけたことは間違いないが、それまでのような高みに彼女の歌が到達することは決してなかったように思う。彼女は単に、歌手としての自分の死期を直感したのだ。

 現在、百恵は歌わない。歌って歌えないこともないだろうが、絶対に歌わない。それは、彼女が自分の歌の最高水準を誰よりも知っているからである。お茶濁しのような歌は、(きっと彼女の家の納戸の奥にでも大切にしまってあるだろう)歌手としてのプライドが許さない。逆説的ではあるが、歌わないことが、今でも彼女が一流の歌手であることを示している。


横須賀ストーリー

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 阿木+宇崎との運命の出会いは、百恵本人の意志によって引き寄せられた。
 
 百恵はもともとダウン・タウン・ブギウギ・バンドが好きで(特に「涙のシークレット・ラヴ」を愛聴していたと言われる。実際、この曲を彼女はテレビで歌ったこともある)、宇崎が彼女のラジオ番組にゲスト出演した際、即興で披露した曲を聴いたのを決定的なきっかけに、彼の作品を歌ってみたい気持ちに駆られたようだ。

「ギターを一本かかえて、即興で作った歌を歌ってくれた。
 短い歌だった。
 おとなになりかけている少女に、もし恋をしたら、何も出来ないけど俺に話してくれるかい? と問いかけた静かな曲だった。
 ほのぼのと、温かいものに包まれた思いがした。
 宇崎さんの曲を歌ってみたい──。
 誰かの曲を歌いたいと自分で思ったのも初めてなら、マネージャーやディレクターに、積極的に希望を伝えたりしたのも、この時が初めてだった」(三浦百恵による解説/阿木燿子・著『プレイバック PART III』/1985)

 当時、宇崎はサングラス、リーゼント頭につなぎを着たツッパリのロックンローラーとして一般的に知られていた。一方、百恵は清純派の高校生アイドルであり、両者のイメージや作風は相容れず、制作サイドは百恵の希望に対して難色を示した。

 シングル盤を中心に動く歌謡曲の世界で、それほど高いセールスを要求されないアルバムは、制作サイドにとっては、歌手の別の側面にスポットを当てたり、様々な新機軸を試みることのできる実験の場でもあった。百恵の制作チームは、結局彼女の意見に押し切られる形で、試験的に宇崎竜童にアルバム用の作品を発注することになる。そして、上がってきた数曲の中にあったのが、運命の1曲「横須賀ストーリー」である。

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 横須賀は、百恵が育った場所だった。生まれは東京だが、小学二年から中学二年の終わり(芸能界入り)までの6年間を彼女はその街で過ごしている。そこは百恵にとって実質的な古里であり、“私の原点”(『蒼い時』)でもあった。

 「横須賀ストーリー」(“これっきり これっきり もう これっきりですか”)は、横須賀の街を舞台に、大人になりかけの少女の淡い初恋を描いた作品だった。自分と同じ高さの目線で描かれた青春の風景、そして、それと併走するような息せき切るようなロック・ビート。その瑞々しく力強い歌世界は、それまで百恵が歌ってきた作品とは一線を画するものだった。彼女はそこに、芸能界入りと共に古里に置き去りにしてきたもうひとりの自分の姿を見つけ、自然と歌の世界に入り込むことができたのだった。

 '76年6月、「横須賀ストーリー」は、その出来の良さから最終的にシングルA面としてリリースされ、大ヒットを記録。当時17歳(高校三年)だった百恵は少女アイドルから脱皮し、以後、阿木+宇崎作品と共に、歌手として、同時に、女として、凄まじい勢いで成熟していくことになる。


横須賀ファミリー

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 当初、百恵は純粋に宇崎のファンだったようで、阿木の存在までは意識していなかった。
 
「それにしても、この時の私はまだ阿木燿子さんを知らずにいた。
 もちろん“横須賀ストーリー”の歌詞が書かれた原稿用紙に阿木燿子とサインがしてあったことで名前は知っていたのだが、阿木さんが宇崎さんの奥さんだということを知ったのは、少し後だったように思う。
 おふたりが御夫婦だということが、とても素敵だと思った」(『プレイバック PART III』)
 
 阿木燿子は横浜・鶴見の育ちだが、後に実家が横須賀に移ったため、その街のことをよく知っていた。百恵作品の依頼を受け、一回りほど年齢の離れたアイドルの少女に詞を書くにあたって、彼女は自分との唯一の共通点である横須賀をそのテーマに選んだのだった。

 一方、夫の宇崎竜童も代表曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(詞は阿木)によって、横須賀とは縁が深い。彼は京都の出身だが、アメリカ海軍が駐屯する横須賀の独特の土地柄を愛していた。横文字の多い商店街、往来するアメリカ軍人、そして、自然と流れ込んで来る舶来文化。アメリカの音楽に洗礼を受けながら、日本語の意味やリズム感を大切にする宇崎の作風に、その性向はよく顕れている。演歌と黒船が邂逅したような彼独特の演歌ロック(あるいは、カタカナ・エンカ)が持つ文化的緊張感、そのいなたい感覚は、まさに横須賀的である。彼は本当の横須賀人よりも横須賀人的と言えるかもしれない。

 山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童。こうして横須賀ファミリーが揃う。
 この3人の擬似家族的、あるいは、ギャング的な結びつきが、私には途方もなく美しいもののように思われる。

 歌謡曲とロックという音楽的な隔たりもさることながら、百恵と阿木+宇崎の間にある13歳という年齢差が、また絶妙だ。友人や兄姉妹にしては差がありすぎ、かと言って、親子ほどに離れているわけでもない。両者はそのいずれの関係性も有しつつ、かつ、どの関係にも決して収束することがない不思議な距離感で繋がっていた。
 百恵にとって2人は理想の夫婦であり、時に、自分に欠けていた幸福な家族関係を疑似体験させてくれる父母のような存在だったかもしれない。一方、百恵と宇崎は恋愛関係に陥る危険性をどこかで孕み、そうなれば、阿木と百恵は女として敵対関係にもなり得る。また、アーティストとしては、紛れもなく共犯関係にありながら、型破りな作品を用意する阿木+宇崎のライティング・チームと、常に予想を超える歌唱でそのハードルをクリアしてみせる百恵との間に、互いに一歩も引き下がらないバトルめいた火花が散ってもいた(阿木と宇崎のおしどり夫婦間でも、百恵作品に限っては喧嘩のような闘争が絶えなかったという)。
 実際のところ、百恵と阿木+宇崎が顔を合わせるのはほとんど仕事場のみで、プライベートでの付き合いはなかったというが、この三者は作品制作を通して、ある意味、どんな人間関係よりも密接に、かつ、高い緊張感で結ばれていた。

「ふつうだったら曲書いてんだからさ、『お茶ぐらいいいじゃない』とかっていう気持ちがあるでしょ。でも、つき合ったことないんですよ。そういうふうに一度も。(中略)それにやっぱりある程度の距離感をもっていくことによって、コンチキショーというのがあンのね、こっちは。次の曲に関してコンチキショーめって。向こう(百恵)もたぶんコンチキショーめって投げてくるんじゃないかと思うんだな」(宇崎竜童インタヴュー/'79年4月21日収録/平岡正明・著『山口百恵は菩薩である』/1979)

「“横須賀ストーリー”で出逢ってからの五年間を思いおこしてみると、仕事の場以外での阿木さんを、まったくと言っていいほど知らない。
 女と女が、密接につき合ってゆくことの方が容易なはずなのに、私と阿木さんが触れあえるのは、“詩”という言葉の空間だけだった」(『プレイバック PART III』)

momoe_vs_aki.jpg 誰一人として余裕がない、真剣を交えるようなトライアングルの中で、最もスリリングなのは、やはり阿木+百恵の女同士の関係である。
 阿木は百恵と同年齢の少女の目線へそっと降りていく一方、ある時は、百恵に実際より3~4歳上の女の心情を歌わせ、ある時は30過ぎ(つまり、自分の年齢)の女の複雑な心理を平然と投げつける。百恵は阿木が詞に描く様々な女模様を次々と咀嚼しながら、もの凄い加速度で女として成長していく。それは母が娘を教育するようでもあるし、先生と生徒一対一の厳しい女塾のようでもある。阿木は百恵の成長が嬉しい一方、何でもかんでもバリバリ食べて女として急速に熟れていく若い百恵に、そのうち宇崎を取られるのではないか、という危惧を常にどこかで抱えていたように思う。そうした阿木のジレンマや殺気が、百恵作品の緊張感を異様なレベルにまで高めていたのではないだろうか(その臨界点が、百恵が三浦友和との交際宣言に踏み切る約5ヶ月前、'79年6月発売のシングル「愛の嵐」だったような気がする。「愛の嵐」後、“引退”という梃子入れがあるまでの一時期、阿木+宇崎の百恵作品のテンションは明らかに停滞~低下傾向にある)。
 また、百恵は百恵で、阿木の言葉を食べながら成長する一方、まるで自分が阿木燿子の分身と化しつつあるような錯覚に苛まれ、どこかで自分に焦りや苛立ちを覚えはしなかったか。阿木の庭は確かに居心地が良いが、いつまでもそこに留まることはできない。百恵には自分の言葉が必要となり、実際、“横須賀恵”という名義で少しずつ作詞を始めるが、言葉で阿木に太刀打ちできるようになる遥か前の時点で、引退の時は訪れている。
 この2人に較べれば、宇崎はまだ幾分呑気でいられた気がする。嫁の不可解な苛立ちの巻き添えを喰うことはあっても、いい女2人から慕われていた彼は、単純に男として幸せ者だと言える。


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 こうした恐るべきテンションによって生み出されていた横須賀ファミリーの作品は、'70年代後半の歌謡曲黄金時代、阿久悠が送り出す沢田研二、ピンク・レディー作品に唯一拮抗する勢力として異彩を放った。“阿久悠帝国”とも言うべき'70年代後半の歌謡界で、彼の息がかかっていない大物は、山口百恵ただ一人と言っていい。

 「横須賀ストーリー」以降、百恵作品のソングライターには、さだまさし(「秋桜」)、谷村新司(「いい日旅立ち」)、堀内孝雄(「愛染橋」)などが適時起用され、中核となる阿木+宇崎作品とのバランスが取られていた。それらは歌手・山口百恵の魅力を、非常に通俗的なレベルで知らしめることには一役買ったが、決して彼女の本領ではないし、また、阿木+宇崎作品とのような密接な関係性もない(百恵にとってそれらの作品は息抜きにも近かっただろう)。「山口百恵」という現象を牽引していたのは、飽くまで百恵+阿木+宇崎という3人の運命共同体なのである。

 8年間を疾風の如く駆け抜け、我々の前から姿を消した山口百恵。
 彼女が阿木+宇崎と共に血を流すように紡ぎだした歌たちは、ひとりの少女の、あまりにも生々しく、美しい成長のドキュメントとして、少しも色褪せることなく、今でも私たちのもとに残されている。


「阿木さんの詩には、宇崎さんのメロディが一番似合うと、おふたりの曲を歌うたびに感じていた。
 阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた」
 
 1985年11月 三浦百恵
 (阿木燿子・著『プレイバック PART III』)
 

THE UNTOUCHABLE MOMOE YAMAGUCHI~
『横須賀から来た女』『VITA SEXUALIS』


momoe_in_black.jpg さて、以上はあまりにも長い前説である。
 ここまで読み通した熱意ある暇人のあなただけに、冒頭で触れた通り、“最強の山口百恵”への最短距離となる2枚のコンピレーションCD(全29曲)を紹介させて頂く。

 それはシングル集でもないし、いわゆる普通の意味でのベスト盤でもない。アンソロジー的なレトロスペクティヴでもなければ、DJ的視点による恣意的文脈からの再評価でもない。シングル32枚、アルバム22枚分ある彼女の全作品から、純粋に頂点部分を抽出することによって生み落とされた、飽くまで“最強の山口百恵”2枚である。

 “最強の(=untouchable な)山口百恵”とは、要するに阿木+宇崎作品のことであり、この2枚の編集盤も当然ながらこのコンビによる作品群で占められている(全曲、阿木燿子・作詞。ごく一部、宇崎以外の作曲家による楽曲含む)。
 2枚はそれぞれ『横須賀から来た女』『VITA SEXUALIS』と題され、明確なコンセプトのもとに編纂されている。簡単に言うと、前者が“ツッパリ系”、後者が“情念系”ということになる。喧嘩が強い山口百恵を知りたければ前者、エロい山口百恵を知りたければ後者がお薦めだが、2つ合わせて“最強の山口百恵”なので、結局どちらも聴くべきである(主な百恵作品の傾向としては、他に“乙女系”があるが、それは必ずしも重要ではない)。
 
 もちろん、“~系”などという括りは単なる便宜上のもので、彼女の作品群がいくつかの系統で明快に分類可能なわけではないが、普遍性や耐久性を考慮し、すべての音楽ファンが真に聴き継ぐべき百恵作品を選び抜いていくと、自然と“ツッパリ系”“情念系”という2つの系統が浮上してくるように思う。そこに立ち現れる山口百恵像は、まさしく最強であり、唯一無比である。山口百恵というのは、歌謡界一喧嘩が強く、しかも同時にエロいという、全く手のつけようがない最高の女だったと私は思う。
 
 これを聴いてダメなら、あなたは山口百恵の歌とは一生縁がない。
 そう確信を持って断言できる、踏み絵にも似た究極の2枚。
 さあ、あなたはこれをどう聴くか?
 

山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 2) ~『横須賀から来た女』
山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 3) ~『VITA SEXUALIS』

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