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山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 3)

Vita_Sexualis.jpg
VITA SEXUALIS (いた・せくすありす)
山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童

【無垢の章】
01. マホガニー・モーニング
02. 幻へようこそ
03. いた・せくすありす
04. 娘たち
05. 美・サイレント
06. 花筆文字
07. ミス・ディオール
【曼珠沙華の章】
08. 謝肉祭
09. 落葉の里
10. 寒椿
11. 想い出のミラージュ
12. イントロダクション・春
13. 曼珠沙華
14. 夜へ…


 山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童の横須賀ファミリーが残した名作群を聴く“最強の山口百恵(The Untouchable Momoe Yamaguchi)”コンピレーション。第二集『VITA SEXUALIS』は、必殺曲「曼珠沙華」に代表される、情念系の百恵作品を中心に編纂されている。

 「曼珠沙華」は'78年12月発表のアルバム表題曲で、翌年3月にシングル「美・サイレント」B面(正確には両A面扱い)としても発売された。ヒット曲ではないが、重要な持ち歌としてテレビでも披露されていたので、百恵ファンでなくとも、リアルタイム世代にとっては馴染みのある作品かもしれない。重く切迫した情動の塊のようなその恋歌は、もはやアイドル歌謡の枠からは逸脱している。それは、彼女が歌手として、同時に女として記録した、ひとつの至高の到達点でもあった。

 『VITA SEXUALIS』は、いわば「曼珠沙華」への道行きを辿る、山口百恵に関する60分の性的ドキュメントである。一億人の目の前で、誰よりも艶めかしく、美しく成熟していった山口百恵。彼女が私たちの女であり続けた年月の中で、最も濃密な季節がここで振り返られる。過ぎた日々を回想する時、そこで取り出される一億人の娼婦のたった1枚の「肖像」とは、このようなものであるべきではないのか。

 この作品集で重要なのは、言うまでもなく、阿木燿子の言葉である。瑞々しい言語感覚で、時に手で触れられそうなほどに豊かなイメージを紡ぎ出すその詞世界。自然や四季を織り込んで女の心模様を美しく彩り、百恵から様々な表情を引き出す手際も実に見事だ。まるで女の生理が刷り込まれたような阿木の言葉を胸に、百恵は生娘から女へと移ろい、遂には危うい官能の世界すら歌うようになる。飽くまで女を全うする、その敢然たる歌いぶりは天晴れと言うしかない。
 第一集『横須賀から来た女』では宇崎竜童のビート感が肝だったが、ここで宇崎は、(ひどく感覚的に言うと)阿木と百恵の女の対話に静かに耳を傾けるような曲作りをしている。その相槌の打ち方の完璧さ。宇崎は話し上手でもあるが、聞き上手でもあるのだ。宇崎の男前な作曲センスがあったからこそ、阿木+百恵の女の談議にも花が咲き、天から曼珠沙華も降ってきたのである。

 恋する女は罪作り。白い花さえ真紅に染める。
 歌手の前に人間であり、あなたの前で女である歌手、山口百恵の魂とエロスがのたうち回る『VITA SEXUALIS』。ここでその全14曲を一気に解説していく。最高にいい女、山口百恵を聴きたければ、これしかない。


【無垢の章】

マホガニー・モーニング 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・芳野藤丸/編曲・大谷和夫
from 『A FACE IN A VISION』(1979.4.1)
 篠山紀信の写真で構成された山口百恵のNHK特番『山口百恵 激写/篠山紀信』('79年3月30日放映。DVD化済み)のサントラとして制作されたアルバム『A FACE IN A VISION』の冒頭曲。“ピンク・フロイド+山口百恵”なアブストラクトで夢幻的サウンドスケープが鮮烈。SHOGUN(藤丸バンド)のメンバーが作編曲を手掛けた、百恵作品中随一の異色作でもある(元ネタになったフロイド「Echoes」の導入部は、'80年11月17日放映『NHK特集 百恵』の中でテーマ音楽のように使われている)。
 3分間にも及ぶイントロを経て歌われるのは、散ってゆく花びらの下で一日座っている年老いた男と、階段の踊り場で遊ぶ褐色の肌をした子供の姿。阿木の舞台設定は、一応、南北戦争後のアメリカ南部らしい。話者の女は超自然的な存在として歌の中に現れ、2人に向けて静かに視線を投げかける。老人の心を読むことのできる彼女は、『ベルリン 天使の詩』(1987)の天使によく似た存在だが、同時に、老人を連れに来た死の使いのようでもある。山口百恵・菩薩論を唱えた評論家の平岡正明は、「マホガニー・モーニング」について、“老人”は百恵の実父、“褐色の子供”は私生児・百恵であり、百恵が自分を裏切った父親を菩提心によって救済する歌である、という読みをしている(実に正しい誤読だと思う)。
 百恵の生い立ちを忘れた耳で聴いた場合、天使(?)、老人、子供が登場するこの歌の構図に、私は何か哲学的なにおいをうっすら感じないでもない。あるいは、仮に“老人”を百恵の父、“子供”を百恵と読む場合、彼女はその父子関係(または、そこに起因する百恵自身の心の傷)を静かに封印するつもりで、この歌を歌っているのではないかという気がする。最後の“そっとしてあげて”は、踊り場で元気よく遊ぶ子供に対する、衰えた無力な老人を煩わせないよう諭す言葉にも取れるが、しかし、そうではなく、話者は、誰に対して言うわけでもなく、一種の祈りのようにこの言葉を発しているのではないか(強いて言えば、“マホガニー・モーニング”に対して言っている。“マホガニー・モーニングよ、この2人をそっとしてあげて”。あるいは、我々に対して、この父子のことには構わないでくれ、と言っている)。
 いずれにせよ、優れた芸術はあらゆる誤読を許容するものであり、また、当の作者でさえ誤読者の一人であり得る。この歌が、恐らく阿木らの意図を超えて、たとえようもなく美しくここにあることだけは間違いない。朝の陽光の中に溶けて消えていくような百恵のファルセットは、まさに神レベル。彼女の歌が歌謡曲の枠に収まりきらないスケールを持つことを如実に示す1曲である。

幻へようこそ 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『ドラマチック』(1978.9.1)
 恋人と軽いジョークに笑い転げるティータイム。“だけど本当は 笑顔の下で私が何を思っているのかおわかりになりますか 幻へようこそ”。アイドル・スター山口百恵の虚構性をさらりと示す佳曲。自己主張型アイドルの先駆けとして、あたかもアイドルの虚構性を突き破ったかのように思われる山口百恵だが、青い性路線の少女アイドル時代から、私小説タイプの作品を歌った阿木+宇崎時代、そして自叙伝『蒼い時』に至るまで、むしろ彼女は自分の虚像を一貫して引き受け続けた実にアイドルらしいアイドルだったと思う。我々の欲望を乱反射しながら、巨大な幻影のように立ち現れる「山口百恵」。“本当の自分”などというものの卑小さ、そして、それを語ることの無意味さ、退屈さ、不潔さを、恐らく彼女は表現者の一人としてはっきり感知していた。マスメディアという、我々と交わるただ一点の場所において、彼女はいつでも言うべきことだけを言い、歌うべきことだけを歌っていたように思う。“瞳閉じて あなたに燃えている心 預けます”──“あなた”が我々でなくて何だというのだろう。そこで委ねられる「山口百恵」こそがすべてであり、真実なのである。陽炎の如く透明に揺らめく百恵のヴォーカルが美しい。

Fleetwood_Mac.jpeg 全くの余談だが、後期の百恵作品を聴いていると、フリートウッド・マック(『RUMOURS』に代表される黄金ラインナップのそれ)を思い出す瞬間が時々ある。これは私だけだろうか。
 百恵はクリスティン・マクヴィーのように涼やかにも歌えるが、ドスを効かせればスティーヴィー・ニックスにもなる。「幻へようこそ」はクリスティンがリード、「輪廻」(“噂は意外と本当なんです 泣かない女と言われてきました”。'80年10月発表『THIS IS MY TRIAL』収録。終盤のギター・ソロ・パートが最高)に至っては、スティーヴィーがリードのマックそのまんまという気がする。特にどの曲に似ているというのはないが、何ともマック的なムードを醸し出しているのである。これは別に百恵側がパクっているわけではなく、単に両者の作品が生成する過程に共通点が多いためではないか。
 フリートウッド・マックはイギリス出身のグループだが、音楽性はアメリカとの中間付近に位置する。湿っていながらカラッとしているという、その独特の音楽的湿度。イギリスとアメリカの地理的距離感、音楽的関係性が、百恵作品における日本とアメリカのそれによく似ている。具体的には、まずブルース/R&Bが根底にあること(マックはもともとブルース・バンド。百恵作品においては、言うまでもなく宇崎がその鍵を握っている)。スティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムという2人のアメリカ人加入によってもたらされた、親しみやすい歌謡曲的ポップ感覚。バンド内に3人のリード・ヴォーカリスト兼ソングライターを擁することによる、キャラの豊富さと作品の多彩さ(このヴァリエーションに百恵はたった一人で対応する)。そして、複数の緊密な人間同士の軋轢、摩擦による緊張から生まれる、その作品の奇跡的なバランス感覚。キーパーソンであるバッキンガムが導入する多彩で無国籍的な音楽感覚は、百恵作品においては、宇崎と編曲の萩田光雄によって、また、エキセントリックな側面は、阿木が焚き付けることで実現している。阿木の詞が持つ美意識や語彙にも共通点があるだろう。何より、決して技巧派でないスティーヴィーとクリスティンのヴォーカリストとしての性質が、百恵と近い(私はマックが好きなので敢えて言うが、百恵は彼女たち2人よりも歌手としての力量は遙かに上である)。これらに加え、百恵作品の音楽ディレクター川瀬泰雄が、ビートルズ・マニアだったという点も見逃せない。
 というわけで、フリートウッド・マックのファンには山口百恵を聴くことをお勧めしたい。リンジー・バッキンガムが百恵のアルバムをプロデュースしたら、一体どんな作品になっていただろうか。


いた・せくすありす 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・船山基紀
from 『百恵白書』(1977.5.21)
 百恵の性的自伝。と言うには、あまりにも清々しい青春歌謡。胸のふくらみに気付いた12の時から、兄貴のような青年を慕う18歳現在までが告白調で歌われる。下地にされているのは、今からちょうど100年前に発表された森鴎外の小説『ヰタ・セクスアリス』(1909)。鴎外が自身の性的遍歴を綴った作品で、年齢を順に追う編年体も共通する。タイトルは“性的生活(sexual life)”を意味するラテン語。鴎外の小説では“性欲的生活”のニュアンスで使われており、性欲が人の生涯にどのように関係しているか、という問いを発端に、性欲に纏わる自身の様々な経験が回想されていく。発表当時は発禁処分にもなった問題作だが、現在の感覚で読むと涼やかな青春小説という印象が強い。吉原での童貞喪失や自慰にも言及する鴎外版に較べると、百恵版は更にソフトコアで、“性”をキーワードに思春期の生娘の揺らぐ心情を描いた瑞々しい一編になっている。ラヴェル「Bolero」調にクレッシェンドしていく編曲も鮮やか。

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娘たち 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「しなやかに歌って」B面(1979.9.1)/『春告鳥』(1980.2.1)
 女性の「通過儀礼」を歌った名曲。愛を大事に籠に入れ、頭にのせたビーナス(娘たち)が、河のせせらぎの中を渡っていく、という映像的なイメージの広がりが美しい。古今東西に見られる頭上運搬をする女性の姿に、百恵の歌唱が破瓜の痛みをそっと重ねていく。一晩だけ咲く月下美人の芳香、月の雫、濡れて重くなるドレス、といった生理的感覚に訴えかける豊かなイメージの連なりも、この耽美的な歌を一層深みのあるものにしている。男としては、ただ口をあんぐり開けて聴くしかないような秘めやかな女の世界。童貞喪失ではこんな立派な歌にはならないだろう。これが「美・サイレント」B面だったら完璧なシングルになっていたと思う(実際にB面収録された「曼珠沙華」が悪いという意味ではもちろんない)。

美・サイレント 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「美・サイレント」(1979.3.1)/『A FACE IN A VISION』(1979.4.1)
 百恵が歌手としてピークを迎えていた時期に発表された名シングル曲。女には“これっきりですか”以上に言いたいことがある。言いたくても言えないその女心を、日本的な間/引き算の美学で見事に表現した。阿木+宇崎がここで繰り出したのは、「プレイバック Part 2」の一時停止&巻き戻しギミックに勝るとも劣らない、サビの一部を伏せ字にするという前代未聞の離れ技。“あなたの○○○○が欲しいのです 燃えてる××××が見たいから”と肝心の箇所を歌わずにおいて、“女の私にここまで言わせて”と続く背理の素晴らしさ。音符のみで示される謎の4文字が話題を呼んでヒットしたが、歌謡曲的なケレンの一方で、「プレイバック」や「港のヨーコ~」同様、大胆なギミックが歌の中で必然として機能し、かつてない歌の話法が編み出されている点に驚かされる。
 この曲のテレビ出演時、百恵は伏せ字部分で口をパクパクさせるというパフォーマンスを披露した。たとえその唇が、1番で“情熱”“ときめき”、2番で“情熱”“ひととき”と動いていたにせよ、それが正解なのではなく、飽くまで、伏せられた箇所に聴き手の我々が様々に(恐らくは淫靡な)想像を巡らすことで、この歌は初めて正しく完成される。ゆえに、この曲は阿木+宇崎版「ひと夏の経験」とも言えるのだが、作品としてはこちらの方が高度、かつ、遙かにエロい。
 「ひと夏の経験」では、“○○○○”が“女の子の一番大切なもの”と歌われていた(“あなたに○○○○をあげるわ”)。“あなたの○○○○が欲しいのです”と歌われる「美・サイレント」では、直後の“女の私にここまで言わせて”が伏せられた言葉に対するヒントになっている。よく似たこれらの歌がひとつ決定的に異なるのは、話者の百恵が、前者では男の性的な欲望に阿る受動的キャラクターであるのに対し、後者では自ら主張して男を欲望する能動的キャラクターになっている点である。「ひと夏の経験」に代表される初期の百恵作品が嫌いだったという宇崎竜童は、その理由を訊かれて、“(メロディや詞が)こびてるように聞こえた”とかつて答えている(平岡正明・著『山口百恵は菩薩である』)。その通り、大衆の欲望の玩具に過ぎなかった百恵は、阿木+宇崎作品によって、聴き手の欲望や幻想を凌駕する主体性を獲得した。いわば、大衆側ではなく百恵側がルールを決め、表現の主導権を握るようになったのである。そして、更に重要なことは、リアルな情動を歌うようになった阿木+宇崎時代においても、初期作品同様、百恵の歌が大衆の欲望とリンクすることを決して忘れなかったということだ。「美・サイレント」は、伏せ字というギミックを通して、千家+都倉時代と阿木+宇崎時代の共通点と相違点が、非常に明快に顕れた1曲と言えると思う。
 当時、この曲の伏せ字部分は様々な憶測を呼んだ。“女の子の一番大切なもの”という伏せ字には、文脈から判断して“処女”という一語しか当てはまらないが(「ひと夏の経験」は、つまりそれだけの歌である)、「美・サイレント」の伏せ字部分に明確な答えは端から用意されていない(“○ん○ん”というのはいい線だが、しかし絶対的な回答ではあり得ない)。百恵も作者の阿木燿子も、そこに決定的な言葉を当てはめることはできないはずだ。なぜなら、つまるところ、それは“あなた”に対する、まさしく言葉にならない欲望の表現だからである(字数を無視していいなら、“すべて”というのが最も正解に近いだろうか)。“女の子の一番大切なもの”が“まごころ”であるわけがないのと同じくらい、伏せ字部分が“情熱”や“ときめき”で済むはずもないのだが、百恵が口にする「正解」を正解として素直に受け入れてしまうファンが多いところを見ると、この曲はちょっと高度過ぎたのかもしれない。
 我々の目の前でいくらでも淫靡になる山口百恵。ここまで来ると、インタラクティヴという言葉さえ浮かんでくる。“一億人の娼婦”と呼ばれた彼女の面目躍如たる傑作だと思う。

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「あなたに○○○○をあげるわ」ではなく「あなたの○○○○が欲しいのです」
欲望されるアイドルから欲望するアイドルへの変化


 また、アフロ・キューバン風サンバにスパニッシュ・ギターが決まるグルーヴィーで瑞々しいアレンジ、静寂と激動が交錯する鮮やかなメロディ展開、サビで爆発する演歌的情緒(まさに宇崎節。「娘たち」「輪廻」のサビでも同じメロディが登場する)、やたらとシャープで艶やかな音像、等々、この曲は音楽的な密度も凄まじい("Be silient" 繰り返し部分におけるディレイ処理されたダブ的なハイハットの入り方にしても、当時としてはかなり斬新な気がする)。流れとしては、サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」('78年6月25日発売。オリコン最高3位)、八神純子「みずいろの雨」('78年9月5日発売。オリコン最高2位)といったラテン歌謡人気に乗った形だと思うが、無国籍的でありながら、最終的に「和」のセンスがきちんと筋を一本通すことで、作品として非常に洗練されている点を大いに評価したい。そして何より、しっとりと濡れに濡れた百恵の歌唱の圧倒的なエロ素晴らしさ。英語と掛けたタイトルの決まり具合とも併せ、カタカナ・エンカの進化型(ハイパー・カタカナ・エンカ?)といった感もある。こういうものを聴かされると、男として、やはり日本の女こそ世界一だと言いたくもなる(ちなみに、「勝手にシンドバッド」も「みずいろの雨」も名曲には違いないのだが、個人的にはS・ワンダー「Another Star」で事足りてしまうせいで、あまり積極的には聴く気にならない)。
 どう聴いてもぶっちぎりだと思うが、当時の売り上げは33万枚、オリコン最高位は4位なのだという。山口百恵という歌手の立ち位置とはそういうものだったのだろう(テレビでの需要は常に横綱級だったと思うが)。彼女は“無冠の女王”の異名も持つ。

花筆文字 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「イミテイション・ゴールド」B面(1977.7.1)/『花ざかり』(1977.12.5)
 「娘たち」同様、自分の性を見つめる耽美的作品。こちらは歌詞・サウンド共に純和風的な情緒に溢れている。墨をすり、一筆に書かれた花の文字が、揺れる女の黒髪になる。阿木の詞はここでも美しい映像的な展開を見せる(白い和紙に筆書きされた花の文字が、実際に女の髪に変化していくアニメーション的な映像が頭に浮かぶ)。髪は女の命です、という、ただそれだけの歌なのだが、身体感覚と精神性がごく自然に結びついているところに女らしさが滲み出ていて、実に艶やか。これが「イミテイション・ゴールド」B面というのも凄いものがあるが、いずれも本能的な歌には違いなく、肉体や生理に対する女の異様な敏感さが顕れた作品という点では通底するものがある。同じ根を持つこの2曲の振幅の大きさこそ、山口百恵の強みだろう。

ミス・ディオール 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・船山基紀
from 『百恵白書』(1977.5.21)
 ピアノ、アコーディオン、弦のみによるシャンソン風情の伴奏で歌われる静かな小品。花筆文字が揺れる女の黒髪になると、そこからは芳香が漂ってくる。“ミス・ディオール 香水の名前です あなたは知ってるかしら 移り香が残るよう 抱きしめて欲しいのです”──切々と歌われるのは、春の宵に好きな男を想ってひとり眠れない娘の心情。こうしたアンプラグドな演出で聴く、さり気なくも情感が滲む百恵のヴォーカルには、また格別の趣がある。
 ミス・ディオール Miss Dior というのは、百恵自身が歌の中で説明してくれる通り、香水の名前である。あなたは知っているかしら(私は知っています。調べたので)。ディオールの香水部門、パルファン・クリスチャン・ディオール社の最初の商品で、発売は'47年。以来、可憐で上品な女性を演出する名香中の名香として、現在まで半世紀以上にわたって愛され続ける大ロングセラー。シプレー系の最高峰とも言われる(シプレー Chypre というのは、大人っぽい落ち着いた印象を与える、ベルガモット、オークモスを基調とする香調を指す。'17年発売のコティ社の同名香水に因む)。尚、ミス・ディオールという名称は、商品名を決める会議に遅刻してきたクリスチャン・ディオールの妹、カトリーヌ・ディオール(奔放な性格だったらしい)の愛称から付けられている。
 歌詞に具体的な商品名“ポルシェ”が登場する「プレイバック Part 2」同様、NHKではそのまま歌えない(というか、曲名すら紹介できない)作品だが、そもそも歌う必要がなかったため、こちらは問題にはならなかった。

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【曼珠沙華の章】

謝肉祭 試聴1 試聴2 試聴3
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・大村雅朗
from 「謝肉祭」(1980.3.21)
 '80年3月7日の結婚・引退発表会見から2週間後に発売されたシングル曲。迫害を受けながらも逞しく生きるジプシー(ロマ)の女を歌い、一気に戦闘モードへ切り替えた(ちなみに、この次のシングルが「ロックンロール・ウィドウ」)。「たそがれ祭り」はブラジルだったが、こちらはスペインのカーニバル。情熱的なフラメンコ・サウンドに乗せて歌われる“愛して 愛して 祭りは短い”というラインが、百恵ちゃん祭りの終焉を静かに告げているようでもある。フラメンコ歌謡は、かつて谷村新司・作「サンタマリアの熱い風」('78年9月発売『ドラマチック』収録)でも試みられていたが、百恵のキャラとヴォーカルは、スペインの血なまぐさい激情とはかなり相性が良い。
 '70年代末の歌謡界はエキゾチック路線が当たっていて、ソニーのプロデューサー酒井政利は、ジュディ・オング「魅せられて~エーゲ海のテーマ」('79年2月25日発売)、久保田早紀「異邦人~シルクロードのテーマ」('79年10月1日発売。メアリー・ホプキン「Those Were The Days(悲しき天使)」にしか聞こえない)を手掛けた後、遅ればせながら百恵にこの“アンダルシアのテーマ”とも言うべき曲を与えた。“真赤なバラ”や“タロット占い”が登場するカルメン風の人物造形、ジプシー=フラメンコ的発想のサウンドは紋切り型ではあるものの、この時期の百恵にとって、すべてを捨てて流浪する運命にあるジプシー女の哀感、その一期一会の世界観は、非常に馴染みやすいものだったと思う。起伏に富んだ激しい曲展開、やたら密度の濃い音色豊かな編曲、時に艶っぽく、時に力強く声を張る表情豊かな百恵の歌唱も聴き応え十分。それら洪水のように押し寄せる要素を、巧みにまとめ上げた立体感溢れるミックスも素晴らしい。百恵の歌唱(あるいは、彼女の声質そのもの)の見本市的作品、また、引退が決定した混乱期の一種の異色作として、特別な魅力を持つ1曲である。
 尚、'70年代末のエキゾチック~オリエンタル系歌謡曲の主なヒットとしては、上に挙げた以外、庄野真代「飛んでイスタンブール」('78年4月1日発売)、ゴダイゴ「ガンダーラ」('78年10月1日発売)といった作品がある。歌詞は関係ないが、編曲がずばりフラメンコな中原理恵「東京ららばい」('78年3月21日発売)、サウンドは関係ないが、歌詞(“薔薇を投げるなら 明日にしてくれ” by 阿久悠)がずばりスペインな Char「闘牛士」('78年3月25日発売)というヒット曲もあった。また、'79年にミュンヘンからジンギスカンという刺客が登場し、徒花臭たっぷりの世界紀行ディスコの怪作を連発して世界をアッと言わせたことは、その作品の見事なまでのどうでもよさにかかわらず、この文脈では特筆されるべき重要な事件である。

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「謝肉祭」は後に萩田光雄の編曲で素晴らしいリメイクが作られた
('93年『歌い継がれてゆく歌のように~百恵回帰II』収録)


落葉の里 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「絶体絶命」B面(1978.8.21)
 化石か砂漠のような都会で木枯らしに吹かれながら、落葉の里に住む大切な“あなた”に宛てる私信。“約束を守らなくて 許して下さい また ここで季節を見送ります 今年も私は道に迷って あなたの所へ帰れません”。太田裕美「木綿のハンカチーフ」('75年12月21日発売)の“あなた”(上京した男)と“私”(故郷にいる女)の立場を逆転させた曲。秋風が吹き抜ける都会のビル街。故郷に帰れず許しを請う主人公。上京した方もまた辛い、というわけだが、阿木は更にもうひと捻りして、“あなた”(故郷の人)を主人公の恋人に限定しなかった。恋人と解しても筋は通るが、百恵自身がこの曲にいたく思い入れがあったらしいことを踏まえると、彼女の解釈では、“あなた”は恐らく彼女の実母である。芸能界という化石の森を彷徨いながら、近くて遠い古里の母を想う(実際には東京で同居していたにせよ)。これで名唱にならないわけがない。百恵に対して常に極度の緊張を強いる阿木+宇崎ではあるが、シングルB面曲ということもあり、ここでは珍しく素直な感情の捌け口を提供しているようにも思える。但し、母に手紙くらいは書かせてやっても、百恵を決して幸せにしないのがソングライターとしての愛。一度芸能界入りした以上、夢を見果てるまで山口百恵に母親との面会は許されないのである。“お母さんを大切にしよう”という標語ほどの意味しかない「秋桜」よりも、遙かに“あなた”と作者の優しさが浸みて来る~?
 ちなみに、この曲は五輪真弓「さよならだけは言わないで」('78年3月21日発売。編曲・船山基紀)にも似ている。曲調や編曲のセンス(特に晩秋を演出するアコーディオンの音色。よくある編曲ではあるが)がそっくりなのだが、そこで歌われているのは“もう これっきりですか”的な男女の別れの風景である。

寒椿 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・若草恵
from 『花ざかり』(1977.12.5)
 冬木立に囲まれた池のほとり。ひっそりと咲いている真赤な寒椿。その鮮やかな大輪の花がひとつ、冷たい池の水にポトリと落ちる。水面に浮かび、静かに沈んでいく落椿に、“ひき返せない恋の深みに落ちたあの日の二人”が重ねられる。まるで短歌のような阿木の詞は、ここでも鮮烈な映像イメージを紡ぎ出す。宇崎はこれを行間まで完璧に読み切り、これ以上ないという曲をつけている。そして、白い息を吐いて悴んだ百恵の歌唱が、そこにまた完璧な呼吸で合わせる。花首ごと水面に落ちる寒椿の花が目に見えるようだ。3人のうちの誰かがほんの少し呼吸を誤っても、椿は池に落ちない。アッと思った瞬間には斬られているという、まさに居合抜きのような曲。冬の情景をストイックに描き出す編曲も緊張感に満ちて素晴らしい。毛色は全く違うが、この曲の冬の冷気に、個人的にはニック・ドレイクの歌がふと思い出された。
 ちなみに、花びらが一枚ずつ散らず、美しく咲いたまま花首から落ちる椿の花は、人間の首が落ちる様を連想させるとして、病人の見舞い品としてはタブーとされる(競馬の世界でも、落馬を連想させるとして馬名には避けられる)。但し、武士が椿を不吉な花として嫌ったという話は、明治時代以降に広まった単なる俗説のようだ。

想い出のミラージュ 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『A FACE IN A VISION』(1979.4.1)
 3ヶ月前に発表された「曼珠沙華」と、2ヶ月後に発表される「愛の嵐」の合の子のような作品。寝床で浅い微睡みの中にいる女を、やるせない倦怠感と息苦しさが襲う。男に体を与えていても、女の中で男への愛は既に終わっている。
 何度聴いても私が眉をひそめずにいられないのは、この曲の大サビ部分における、阿木の言葉のあまりの直截さである──“愛されただけではなく 愛していたのよ 愛さない訳ではなく 愛せなくなったの 何より今では それがとてもつらいの Everything has to change Everything is gone”。「愛」を四連発する何の捻りもない説明的な心情吐露、異様な語気の強さ、終いには、日本語が感情に追いつかないのか、思い余って英語が力任せに投げつけられる。これは「愛の嵐」における、“炎と書いてジェラシー ルビをふったらジェラシー”、その末の“ジェラシー・ストーム ストーム ストーム……”の連発と全く同じパターンだ。阿木は一体なぜここまで苛立っているのだろう。宇崎との夫婦生活に軽い倦怠期でも訪れていたのか。阿木の破壊的で強引な言葉遣いが好きな私も、あまりに一方的なこの言葉運びには、正直、そりゃねえだろ、と言いたくなる。この奇妙な直接性が(例えば、ビートルズ「I Want You」のように)確信的なものであるなら、阿木もつくづく喰えない女だと思うが、「愛の嵐」のそれが主人公の錯乱した精神状態と絶妙にシンクロしていたのに較べると(つまり、「愛の嵐」はあの強引さこそが良い)、こちらはどうにも独りよがりな印象が拭えない。阿木の詞作のベストでは到底あり得ないだろうが、しかし、そこはさすが無敵時代の山口百恵。彼女の歌唱がこの激昂にきちんと力業で応えていて、作品としては救われている(ただ、歌唱にはさすがに少々戸惑いの色を感じるか)。あまりと言えばあまりの肉弾戦。これが少し阿木らしい冷静さを取り戻すと、「愛の嵐」(“心の貧しい女だわ 私”という内省。“ルビをふったら”という表現の切れ)になるのかもしれない。付き合う百恵も大変である。
 楽曲・編曲は「曼珠沙華」に限りなく近いが、寒々しい部屋で布団の中にいる女の想念、“~なわけではなく”という言い回しの類似から、内藤やす子「弟よ」(作詞・橋本淳/作曲・川口真)を思い出させもする。また、サビ部分のサウンドの重さは、ジョン・レノン「How Do You Sleep?」を微妙に連想させるか(レノンがポールへの当てつけで書いたレゲエ風味の作品。“Ahhh.... How do you sleep”と“あ~ あ~ 想い出のミラージュ”が私には被って聞こえるのだが。“あんた、よく眠れるかい?”という皮肉な台詞は、偶然にも「想い出のミラージュ」のパートナーの男に対する主人公の心情と重なる。いっそ横で眠る男に問いかける歌にした方が良かったかも)。

イントロダクション・春 試聴
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・大村雅朗
from 「謝肉祭」B面(1980.3.21)
 百恵、21にして立つ、といった感じのシャンソン歌謡。夢見る頃をいくつか過ぎた花吹雪の下、“愛がすべて”と決意を新たにする。とはいえ、「All You Need Is Love(愛こそはすべて)」的な愛と自由の賛歌であるはずもなく、飽くまで個人的な闘争の色を帯びているところが百恵らしい。“あなた この手を離さないで 死が二人を分かつまで”──この言葉の響きの重さは尋常でない。アイドル歌手がここまで重くなっていいのだろうか。当時、百恵は金子由香利のファンで、シャンソンにかなり傾倒していたらしい(「愛の賛歌」もレパートリーにしていた)。ここで聴かせる、一語一語を噛み砕くような力強いシャンソン的歌唱は、引退によって断ち切られた歌手・山口百恵の計り知れないポテンシャルを窺わせる一方、その恐れることのない情動の塊のような歌は、人生において、ある特別な季節にいる人間だけが持ち得る馬鹿力のなせる業という気もする。仰々しさを超えた圧倒的スケールで聴き手に挑みかかる歌声。武道館の引退公演でも歌われたが、編曲含め、まずはオリジナルのスタジオ版の重さに打ちのめされたい。

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曼珠沙華 試聴1 試聴2
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『曼珠沙華』(1978.12.21)/「美・サイレント」B面(1979.3.1)
 問答無用の代表曲にして、歌手・山口百恵のひとつの完成形。同時に、宇崎が標榜したカタカナ・エンカの完成形でもあるだろう。曼珠沙華の花に恋する女の情念を重ね、ひたすら圧倒的な高みに昇っていく。シングルA面曲ではないが、発表以降、百恵にとって最重要レパートリーとなり、テレビでもしばしば歌われた。これを聴かなくてどうするという、火の玉のような渾身のド真ん中ストレートである(ちなみに、シャーデーだと「No Ordinary Love」がこれに当たる)。
 曼珠沙華は彼岸花の別称。秋の彼岸の時期に咲く、毒々しい赤色をした何とも妖しげな姿の花である(花言葉:想うはあなた一人)。その不思議な名称は、法華経に登場する四華(4種の蓮華の花)──曼荼羅華(白蓮華)、摩訶曼荼羅華(大白蓮華)、曼珠沙華(紅蓮華)、摩訶曼珠沙華(大紅蓮華)──に由来する。法華経が唱えられる際の瑞相(めでたい印)として、これらの花が天から降るという。曼珠沙華の色は赤とされる一方、これを白とする説もある。曰く、“白色柔軟で、これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の花”(大辞泉/天が意のままに降らせることから、如意花とも言われる。アルバム『曼珠沙華』歌詞カードにもこれと同内容の説明が添えられている)。残念ながら、赤色説と白色説が混在する点について精査している言説を私は見つけることができなかったが、いずれにせよ、曼珠沙華はそもそも架空の花であり、後にその名称が彼岸花を指すものとして流用されるようになったということは間違いない。
 曼珠沙華は通常“マンジュシャゲ”と発音されるが、ここでは梵語の発音に準じて“マンジューシャカ”と歌われる。これは上記の仏教上の意味合いを強調するためだろう。“あなたへの手紙 最後の一行 想いつかない どこでけじめをつけましょ”──話者の女の恋は何らかの倫理的問題を抱えているらしいのだが、もうどうにも止まることができない。“マンジューシャカ 恋する女は 罪つくり 白い花さえ 真紅に染める”。天から降って人の心を浄化する曼珠沙華。そこにオーバーラップする実在の曼珠沙華(彼岸花)の血のような紅。その色は己の煩悩の証である。行くところまで行かざるを得ない、呪われた恋の道行。危険な一線を越えていく百恵の体当たりの絶唱が凄まじい。シンプルで骨太な楽曲・編曲・演奏の炎上ぶりも圧巻。まるで視界が真紅に染まっていくような錯覚を与える、ディレイ処理されたギターのアウトロに至っては、戦慄すら覚えるほどだ(この曲のライヴ演奏では、「Twilight Zone」風なリフを奏でるFの無限ループから、曲のキーであるBbmに帰着する終わり方が定番になっていたが、Fで宙づりのまま消失するスタジオ版の終わり方こそ絶対に正しい。なぜなら、Bbmに落として音楽的にけじめがつけられると、せっかく染まった紅がそこで消えてしまうからだ)。
 同名のアルバムは、正式タイトルを『二十才の記念碑 曼珠沙華』といい、実際、百恵が二十歳を迎える折りに発表された。アルバムでは「曼珠沙華」が始まる前に、30秒間、百恵自身による二十歳の所信表明とも言うべき語り(詩の朗読)がイントロ風に収録されている。これはステージでも同様に語られることがあった(重要ゆえ、本編集盤『VITA SEXUALIS』においてもこれが収録されている)。
 尚、曼珠沙華が歌い込まれた流行歌としては、由利あけみ「長崎物語」(1939/“赤い花なら曼珠沙華”)も有名だが、注目は何と言っても二葉あき子「恋の曼珠沙華」(1948/作詞・西條八十、作曲・古賀政男)。曼珠沙華に女の切ない恋心を投影したその歌は、まさに百恵「曼珠沙華」のプロトタイプと呼ぶに相応しい(“思いかなわぬ 夢ならば 何故に咲いたぞ 乙女の胸に あの日から人知れず 咲いた花 ああ 切なきは 女の恋の曼珠沙華”)。そして更に重要なのは、この古賀作品が後に美空ひばりの録音によってもヒットしていることである(1962/編曲・佐伯亮、演奏・原信夫とシャープス&フラッツ。同年のレコード大賞編曲賞受賞)。ひばりが曼珠沙華を歌っているなら、百恵版がわざわざ“マンジューシャカ”と力んでみせた点も頷ける。「曼珠沙華」という作品は、つまり、女王・美空ひばりに対する挑戦状だったのではないだろうか。

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美空ひばり「恋の曼珠沙華」(1962)

──あなたは、わりと早い時期から、ひばりの次の女王候補という言い方をされていた。一方は横浜、一方は横須賀という、わりと共通の雰囲気から出てきて、実力で一時代を築いた。もちろんキャラクターはまったく違うけれども、それは時代の違いであって、本質は意外と似ているんじゃないかしら。
「はっきり言って、似ていてほしくないですね。私はあんまり好きじゃない──というと非常に失礼ですけどね。たとえ仕事をしていてもしていなくても、あそこまで孤独になってしまいたくない。私はこういう仕事をしていて、自分が孤独だと感じることも多いんですけど、どこかでまだ救われる部分があるでしょう。ステージに立っていてもひとりじゃないし、バンドの皆さんもいる。仲間と呼べる人間が一緒にいてくれるという……。それがなかったら、きっともっと簡単にやめちゃって、どっかへ行っちゃうんじゃないかという気がする。誰も私を知らないところへ行きたいとか、バカなことを言い出すんじゃないかなと思います」(筑紫哲也による山口百恵インタヴュー/プレイボーイ/'80年11月号)

 “はっきり言って”って、百恵21歳、そこまではっきり言うか。この現役時代最後のインタヴューで彼女は異様に殺気立っているが(武道館の引退公演直前、歌手・山口百恵をその手でまさに抹殺しようとしている時だった)、それゆえに内容は滅法面白い。
 それから約3年後、引退後初のインタヴューに応じた百恵は、取材者の残間里江子(百恵自叙伝『蒼い時』編集者)に対して、以下のように愚痴をこぼしている。山口百恵と三浦百恵の温度差がよく分かるので、ついでに引用しておく。

「筑紫哲也さんから『暴走の光景』という本を送っていただいて、それに、筑紫さんがインタビュアーになってくださった私のラストインタビューが再録されているんだけど、それを読んでいたらとても恥ずかしくなったの。(中略)語尾も強いし、言葉のニュアンスもきつい感じなの。筑紫さんのような大人を相手に言ってはいけない表現や言葉の選びかたをしていたの。あれは自分の言葉の記録だから私には自分の声で聞こえるんだけど、失言がいっぱいあるような気がするの。昔インタビューを受けたものを今読み返したら、失言の数にきっと絶望すると思う」
──今と同一人物とは思えない?
「思えない(笑)。今、あんなに攻撃的にうちのだんなさまに向かってものを言ったら、『荷物まとめて出ていけ!』って言われるだろうな、とか思ったり(笑)。やっぱりあの自分には……まあ戻るっていう言いかたもおかしいけれど、戻りたくないし、あんなに乾いてしまいたくないという気がすごくする」(フリー/'83年8月号)

夜へ… 試聴1 試聴2
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『A FACE IN A VISION』(1979.4.1)
 最も危険な山口百恵。「曼珠沙華」を突き抜けた先にこの歌がある。“修羅 修羅 阿修羅 修羅 慕情 嫉妬 化身”──フランス語に似せた呪文か念仏のような言葉を囁きながら、あやしく、あまやかな夜の闇へ身を投じていく女。“許して……行かせて……”──女は一体誰に対して許しを乞い、どこへ向かおうとしているのか。ひどく朦朧とした歌詞を強引に読み解くなら、向かう先は帝釈天、許しを乞われているのは阿修羅、話者の女はその娘・舎脂ということになる。
 帝釈天と抗争を繰り広げた戦闘神として知られる阿修羅。彼が怒りと闘いの鬼と化した理由は、帝釈天と舎脂の不義にあるという。もともと阿修羅は娘の舎脂を帝釈天に嫁がせたいと考えていたが、それより先に帝釈天が舎脂を力ずくで手込めにしてしまった。これに激怒した阿修羅は、帝釈天に対して飽くなき闘いを挑むことになり、これがきっかけで天界を追放されたという。一方、娘の舎脂は、陵辱された身であるにもかかわらず、逆に帝釈天を愛してしまったようで、阿修羅を裏切るように、帝釈天の妻となった──仏教に疎い私に説明できるのは、ひとまずこの程度である(更に興味がある向きは各自適当に調べてほしい。私はこの話を'79年出版のひろさちや著『阿修羅よ… 輪廻の世界』という本で読んだ)。
 このエピソードを「夜へ…」に重ねると、話者の女を突き動かしているものが肉欲に違いないことが読めてくる。もちろん、舎脂が帝釈天と肉欲だけで結ばれていたとも言い切れないが、いずれにせよ、強姦から生じた異形の愛ゆえ、それは現代の視点から見ると非常に背徳的である。そして、その愛は阿修羅を悪鬼に変え、暗黒面に陥れるという事態を招いた(阿修羅のダースベイダー化)。「夜へ…」で描かれる、あまりに甘美で抗しがたい官能の世界、そこに漂う得体の知れない不穏さは、これらと決して無関係ではいられない。倫理を超越する圧倒的エロス──その先には、大いなる悲劇が待ち受けているかもしれない。阿修羅の意味とは、つまりそういうことだろう。国民的アイドルが歌うには、あまりにも際どい世界と言わざるを得ない。
 また、ここでもうひとつ重要なのは、阿修羅というキーワードを通して、この歌に父親との訣別が暗示されている点である。これを「マホガニー・モーニング」に関する平岡正明の解釈と対立させ、“菩薩じゃないのよ百恵は”(俺に冗談を言わせる気か!)などと平岡風に言ってみるのも一興かもしれない。「マホガニー・モーニング」の百恵を菩薩がかっていると言いたい気持ちは分からなくもないが、仮に百恵が父親を歌う場合、もっと冷徹なリアリズムを伴うと考えるのが妥当ではないだろうか(例えば、バルバラ「Nantes(ナントに雨が降る)」のように。百恵が抱える闇の中に近親相姦が潜んでいる可能性までは考えたくないが、『蒼い時』でそれに若干近い記憶が語られていることは事実である──“あの人の目、娘を見る父親の目ではなかった。娘を娘としてではなく、自分の所有している女を見る時のような動物的な目だった。実の娘に注がれた不潔な視線は私を父から隔絶した”)。結局、百恵が正面から父親を歌ったことなど、一度もなかったのではないか。ライヴ盤『山口百恵リサイタル~愛が詩にかわる時』('79年11月21日発売)での「マホガニー・モーニング」の歌唱にも強く感じられることだが、山口百恵という歌手は、菩薩と言うより、本質的にはむしろ阿修羅に近いと思う。
 「夜へ…」は、「マホガニー・モーニング」と共にアルバム『A FACE IN A VISION』でブックエンドの役割を果たした作品。百恵の歌唱、楽曲、編曲の素晴らしさ等については、もはや語る言葉もない。何もかも完璧である。最後にひとつだけ言い添えるなら、この曲に流れている空気──これが、人を狂気に駆り立てる、あの春先の空気に違いないということ。実際、歌詞には“春風(しゅんぷう)”という語も織り込まれているが、それが不要にも思えるほど、この曲には春先の妖気が充満している。この曲を聴いて犯罪を犯す人間が現れたとしても、私は驚かない(キャンディーズ「春一番」にも同じ空気が見事に捉えられていて、耳にする度に私は発狂しそうになる。ビートルズ「A Day In The Life」などもその類だ)。
 ゆっくり、ゆるやかに、ひそかに、ひめやかに──やさしく手招きをするように、聴く者を確実に狂った世界へと誘う声。一人でも多くの音楽ファンに聴いてもらいたい。歌手・山口百恵の最深部がここにある。


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 『VITA SEXUALIS』は、LP盤の様式を踏まえた二部構成になっている。
 “無垢の章”と題された第一部では、まず山口百恵の降臨(あるいは、出生)が示された後、彼女が少女として自らの性を見つめ、女として目覚めていく様子が振り返られる。“曼珠沙華の章”と題された第二部では、ひとり悶々としていた百恵が、遂に敢然と愛を求め、男に抱かれにいく過程を追う。自己と対話するような内向的/静的な前半に対し、後半は、他者との関係性を意識した外向的/動的な展開を見せる。「曼珠沙華」へと至る山口百恵の女の道は、この二部構成によって自ずと開かれるだろう。

 この編集盤を聴いて感じられるのは、山口百恵がいかにいい女だったかということである。ルックス的には決してずば抜けた美人でもないし、水着グラビアなどで披露されたオバさん体型を見ると、特に肉体的な魅力があったとも思えない。しかし、この人の歌は、そこらへんのお色気タレントなど比較にならないほどの艶めかしさを湛えている。彼女は誰よりも、ただ自分の性に正直であろうとしていたように思う。

 愛のためなら死ねる──かつて山口百恵はそう言った。それは引退という形で半ば実証されることになるのだが、そんな話を持ち出すまでもなく、山口百恵という女の真実はその作品の中に顕れている。
 愛がすべて。
 この真理を語り得た希代の女性歌手・山口百恵を、『VITA SEXUALIS』は今に蘇らせるのである。


 最後に、SubPop69氏とkeganihon氏に感謝。両氏のご厚意がなければ、私はここまで山口百恵という歌手にのめり込むことはなかった。私の百恵ファン歴4ヶ月の記念碑として、これらの拙文をお二人に捧げたい。


追記('11年1月17日):
 これは単なる独り言だが、9曲目「落葉の里」は「木洩れ日」('76年『17才のテーマ』収録)と差し替えても悪くないと思う。但し、百恵の歌唱が他の収録曲と較べて幼すぎるのが難点(編曲も凡庸)。「落葉の里」の成熟した歌唱で「木洩れ日」が録音されていれば最高なのだが……。「木洩れ日」は阿木+宇崎が百恵に初めて提供した4曲の中のひとつで、「曼珠沙華」への第一歩のような作品。未熟さが残る素朴な歌唱も、それはそれでまたひとつの魅力には違いない。尚、この9曲目に入る阿木+宇崎作品の候補としては、他に「霧雨楼」('78年『ドラマチック』収録)という曲もあるが、個人的には「落葉の里」「木洩れ日」と較べると質が落ちるように感じる。

 ちなみに、この記事を書いてからしばらくして、私は「夜へ…」という作品に対して、ちあきなおみ「夜へ急ぐ人」(1977)に触発されたものではないか、という印象を強く持つようになった。ドラマチック・シンガー=ちあきなおみの後を追い、'70年代後半の彼女の不在期間を見事に埋めたのが山口百恵だった(ドラマチック・シンガーとしての山口百恵は、'78年「プレイバック Part 2」~『ドラマチック』で確立されている)。
 '78年から'81年まで結婚のため休業状態だったちあきは、その間、百恵の所属先であるソニーでたった一度だけレコーディングを経験しているのだが……。百恵とちあきなおみの関係には興味深いものがある。



山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 1)
山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 2) ~『横須賀から来た女』

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