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マリア・パヘス『私が、カルメン』@オーチャードホール



 マリア・パヘスの来日公演を観た。
 
 サラ・バラスやエバ・ジェルバブエナらと並ぶ現代スペインの代表的な女性フラメンコ舞踊家('63年生まれ/セビージャ出身)。アントニオ・ガデス(フラメンコを伝統舞踊から舞台芸術へ昇華させた巨匠)など数々の名門舞踊団で活躍した後、'90年に自身の舞踊団を旗揚げし、クラシック、ジャズ、ロック、シャンソンなどを用いた型破りな作品でフラメンコ界に新風を吹き込んできた人物。カルロス・サウラ監督の映画『フラメンコ』(1995)や、日本でもお馴染みのアイリッシュ・ミュージカル『リバーダンス』(1995)への出演でも知られる。マリア・パヘス舞踊団として'01年から来日公演も頻繁に行い、日本でも高い人気を誇る。

 私がマリア・パヘスの舞台を生で観るのは初めて。1年前にエバ・ジェルバブエナとロシオ・モリーナの来日公演に破壊的な衝撃を受けたフラメンコ素人の私は、これまで馴染みのなかった彼女の舞台も観てみようと思った。パヘスが相当に変わったフラメンコ作家であることは、前作『ユートピア』(2012)がオスカー・ニーマイヤーの建築に触発された作品だったという点からも窺い知れる。今回はメリメ/ビゼーの古典『カルメン』を題材にした最新作を引っ提げての来日。『カルメン』なら私も知っている。さて、どんなものを見せてくれるのか。



私が、カルメン
Yo, Carmen
演出/振付:マリア・パヘス
音楽:ジョルジュ・ビゼー、セバスティアン・イラディエール、ルーベン・レバニエゴス、セルヒオ・メネム、ダビッド・モニス、マリア・パヘス
詩/テキスト:マリア・サンブラーノ、与謝野晶子、マリーナ・ツヴェターエワ、マルグリット・ユルスナール、マーガレット・アウトウッド、ベレン・レジェス、セシル・カイレブワ、フォルーグ・ファッロフザード、ウィダッド・ベンムーサ、マリア・パヘス
出演:マリア・パヘス、イサベル・ロドリゲス、マリア・ヴェガ、ルシア・カンピージョ、ソニア・フランコ、ナタリア・ゴンザレス、マカレナ・ラミレス、ホセ・バリオス、ホセ・アントニオ・フラド(バイレ)、アナ・ラモン、ロレト・デ・ディエゴ(カンテ)、ルーベン・レバニエゴス、ホセ・カリージョ“フィティ”(ギター)、チェマ・ウリアルテ(カホン)、セルヒオ・メネム(チェロ)、ダビッド・モニス(ヴァイオリン)


 『私が、カルメン』('14年10月、スペインで初演)の東京公演は、'15年4月24日〜26日、Bunkamura オーチャードホールで3日間行われた。私が観たのは4月24日(金)の初日公演。

 19世紀に書かれたプロスペル・メリメの小説、および、それを基にしたジョルジュ・ビゼー作曲の歌劇『カルメン』は、フラメンコも含めて、これまでに様々な舞台や映画で無数のヴァージョンが作られてきた。魔性のジプシー女=カルメンに竜騎兵のドン・ホセが翻弄され、自分を捨てて闘牛士のエスカミーリョに走ったカルメンを嫉妬に駆られて殺す……という物語は、ビゼーの楽曲とあわせて誰でも知っているだろう。フランスの男性作家が描いた奔放なファム・ファタール像は、スペイン人女性のステレオタイプとして現在も生き続けている。スペインの女というだけで、私たちは無意識にカルメン風のイメージを抱きがちである。

 “本当のカルメンはメリメの描くそれじゃない、私たちなのよ”──『私が、カルメン』の意味をマリア・パヘスはそう説明する。男性の想像の産物としての女性ではなく、本当の女性の姿を自分たちの言葉で語る……というのが、日本公演公式サイトで事前にパヘス自身が語っていた本作のコンセプトだった。

 実際に舞台を観るまでは、メリメが書いた『カルメン』の物語構造をある程度踏まえたものかと思っていたのだが、全然違った。『私が、カルメン』には、ドン・ホセもエスカミーリョも出てこない。それどころか、主役であるはずの煙草工場の女工、カルメンすら出てこない。『私が、カルメン』は、確かに『カルメン』を題材にしていながら、あらゆる意味で私たちが知っている『カルメン』とは異なる。カルメンであってカルメンでない──“Carmen, not Carmen”とも題せるような、『カルメン』の実に大胆不敵な換骨奪胎なのである。


オープニングの「前奏曲」──アバニコを使った女たちの舞い

 『私が、カルメン』は、マリア・パヘスを含む7人のバイラオーラ(女性フラメンコ・ダンサー)たちが暗闇の中で横一列に並び、それぞれ異なる模様が描かれた白いアバニコ(フラメンコで使う扇子)を開く場面から始まる。静かな場内に“ジャッ、ジャッ”というアバニコの鋭い開閉音が響き渡る。公演終了後に行われたパヘスのトークショウで分かったことだが、アバニコを開く動作には、“女性の魂を開く”という意味が込められているという。続けて場内に流れたのは『カルメン』のあまりにも有名な前奏曲。オーケストラ演奏によるごく標準的なレコード音源である。これに合わせてアバニコを使った舞いが披露される。このオープニングで『カルメン』のお馴染みの前奏曲は、元の文脈から切り離され、女たちの自由を謳うファンファーレに変わっていた。『私が、カルメン』は、ビゼーの音楽を流用しながら、メリメが書いた女性像を女たちの手で一から書き直そうとする試みなのである。


「母性と教育、伝え、教えること」──母と娘を描いた柔和な場面

 『私が、カルメン』に明確な物語はない。「言葉」と題された場面では、与謝野晶子をはじめとする古今東西の様々な女性文学者たちの詩句がナレーションで流れる中、本を手にした女たちが舞い、学ぶことの自由や素晴らしさが謳われる。「母性と教育、伝え、教えること」では、パヘスと小柄なバイラオーラがペアを組み、踊りを教える姿を通して、母が娘を育てる様子が鮮やかに表現される。「主婦の喜び」では、ホウキやハタキを使った群舞によって、家の中で奔走する主婦の日常が生き生きと描かれる。フラメンコ調に編曲された『カルメン』楽曲──「ラララ……/ちょっと待って、カルメン」「セビージャの砦の近くに(セギディーリャ)」「ジプシーの歌」「恋は野の鳥(ハバネラ)」──や、それに触発された独自のフラメンコ楽曲がこうしたパフォーマンスに付随し、女の素の生き様や心象を投影した新たな“カルメン”像が生み出されていく。『カルメン』と全く違うことが語られているにもかかわらず、あたかも最初からそうであったかのように、ビゼーの楽曲が各場面にしっかりと収まる。『カルメン』の原作本からメリメの文章が消え、まるで(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で歴史が変わった時のように)紙の上に別のテキストが浮き出てくるような感覚、とでも言えば伝わるだろうか。


「主婦の喜び」──天井からホウキやエプロンが降りてくる。イッツ・掃除タイム!

 ギター、カホン(フラメンコで使用される箱型の打楽器)、パルマ(手拍子)という通常の編成にチェロとヴァイオリンを加えた生演奏は、クラシック音楽とフラメンコをごく自然に融合させた実に美しいものだった。公演の大半の時間、演奏を担う男性たちは紗幕で仕切られたステージ後方の暗闇の中に隠れているか、時おり照明でシルエットが浮かび上がる程度で、直に舞台に姿を見せるのは、ほとんど女性──バイラオーラ7人+カンタオーラ(女性フラメンコ歌手)2人──のみ。「愛」と題された場面では例外的に2人のバイラオール(男性フラメンコ・ダンサー)がバイラオーラ2人と共に登場したが、彼らの姿はシルエットで提示され、あたかも女性の人生に去来する影のような存在として扱われた。徹底して“女”が主役の舞台。女性の心の中を映し出すような詩的な視覚イメージも鮮やかで、中でも「恐怖」という場面での演出──暗い舞台に横から光を当て、女たちが洞窟か迷路の中を彷徨っているように見せた──は、緊張感溢れるサパテアード(足を踏み鳴らすフラメンコの踊り)や音楽と共に強く印象に残った。


場内を大いに沸かせた「日常の行進」

 ショウの中でとりわけ印象深かったのは、後半に登場した「日常の行進」というナンバー。ベレン・レジェス Belén Reyes というスペインの女性詩人('64年、マドリッド生まれ)が書いた詞に、ギターのルーベン・レバニエゴスとマリア・パヘスが曲をつけたオリジナル・ソング──「Bibbidi-Bobbidi-Boo」にやや似たメロディを持つメジャー調の陽気な歌──を、肩からバッグを提げた7人のバイラオーラたちが全員で歌う。サビの歌詞は以下のようなものだ。

  もうたくさん!
  バッグの中から何もみつからない
  もうたくさん!
  あんただってバッグから何もみつけられない

 
 メガネ、携帯電話、ハンドクリーム、クシ、車のキー、ライター、刺繍入りのシルクスカーフ、身分証明書、スケジュール帳……。バッグの中をかき回して探しものでパニックになる描写から始まり、ユーモラスな歌詞は、女性をノイローゼにする消費社会へ軽妙に疑問を投げかけていく。

  “あなたもツヤのある滑らかなお肌に。100%証明済み”
  雑誌や広告 偽りの約束で
  私を惑わせないで
  アンジェリーナ・ジョリーが使っているって
  1,200種類ものクリームを なんてこった!

  ブランドやトレンド バーゲンセールも もうたくさん
  完璧で光り輝く女性でなくてもいい
  ファッションショーのように視線を気にして着飾るのは
  もううんざり
  私たちを狂わせる
  女はこうあるべきなんて決まり事に兵隊のように従うのは
  もうたくさん!


 バッグというアイテムについて、終演後のトークショウでマリア・パヘスはこう説明していた──“すべての女性たちはバッグを持っています。そこには私たちの生活の半分が入っていて、バッグの中身を見ればどんな女性であるかが分かるほどです。バッグによって、私たち女性の性格や本能までも表現できると思います”。

 「日常の行進」はシュプレヒシュティンメ調の語り歌である。この陽気な歌──フラメンコでは“タンギージョ(Tanguillo)”と呼ばれる祭り歌──を、マリア・パヘスはダミ声で威勢良く、観客に向かって文字通り語りかけるように歌った。舞台の左右脇には日本語字幕が表示され、日本の観客にもスペイン語の歌詞が分かるようになっている。しかし、パヘスはそれだけで満足するような人ではなかった。歌の途中、バッグの中から一枚の紙切れを取り出すと、彼女はそれを見ながら、なんと観客の私たちに向かって日本語で直接語りかけたのである。

“ミ〜ナサン、コンバンハ。トーキョーデ、ブンカムラデ、公演デキテ、ウレシイ、デス〜! コノ Tanguillo ハ、女性ニ、ササゲル、モノナノ。国ガ、チガッテモ、キット、女性タチハ、ワカリアエル、ト、オモウ。ミナサマ、キョウハ、ドウモ、アリガトウ。I love Japan! Ole!”

 ここで場内が大いに沸いたのは言うまでもない。ポピュラー音楽のコンサートではごく普通に行われることだが、このような演劇的な作品でパフォーマーが観客に向かって直接語りかけることは稀である。マリア・パヘスは、舞台上の架空世界と、観客のいる現実世界の間にある不可視の壁──演劇用語で“第四の壁”と呼ばれる──を突き破り、スペインと日本の女性たちの心を繋いだ。言葉で語る、という本作のコンセプトを明快に示すと同時に、表現者/エンターテイナーとしてのマリア・パヘスの気骨が露わになった注目すべき瞬間だった。


「壊れた神話」──鏡の前で“カルメン”に変身するパヘス

 これに続く「壊れた神話」という場面は、「日常の行進」からの繋がりを感じさせるものだった。フラメンコ調に編曲された「恋は野の鳥(ハバネラ)」の演奏に乗って、鏡の前でパヘスがバロック調の豪華な赤いドレスや装飾品をひとつひとつ身に着けていく。「日常の行進」で歌われた“ファッションショーのように視線を気にして着飾る”女の実演である。「恋は野の鳥」は、ファム・ファタール=カルメンのテーマ・ソング的な曲。誰もが知る“カルメン”のイメージがここで初めて登場した。しかし、曲が終わると、パヘスはあっさりとドレスを脱ぎ、再び元の質素な格好に戻る。そして、冒頭でも使われていた白いアバニコ──女性の魂──を静かに開く。

 虚飾を脱ぎ捨てた後に演じられたクライマックス「エッセンス、本質」は、マリア・パヘスのバイレ・ソロと、パヘスを含む7人のバイラオーラによる群舞をフィーチャーした直球のパフォーマンス。激烈なオリジナルのフラメンコ楽曲、熱いカンテ、そして、しなやかなバイレが、何の装飾もないシンプルな演出で披露される。それまでステージ後方に隠れていた男性ミュージシャンたちも全員姿を見せ、舞台中央のバイラオーラたちを囲むように配置された椅子に座って演奏を行った。文字通り、女性とフラメンコの“エッセンス”を浮き彫りにするような圧巻のエンディングだった。

YoCarmen08.jpg
カルロス・サウラ監督『フラメンコ』(1995)──マリア・パヘスのバイレ

 フラメンコの踊りと言えば何と言ってもサパテアードだが、マリア・パヘスは──もちろん、サパテアードも普通にやるが──両腕・両手先を滑らかに使った繊細で妖艶な動きや、身体全体のフォームの美しさに定評のある踊り手である。カルロス・サウラの映画『フラメンコ』でも、彼女はサパテアードを一切踏まず、白いスクリーン越しにシルエットで登場するという特殊な演出でその個性を発揮していた。私自身はタップ経由でフラメンコのファンになった人間なので、視覚的な美しさで魅せるパヘスよりも、エバ・ジェルバブエナなロシオ・モリーナのように、猛烈なサパテアードで聴覚に強く訴える踊り手の方が好みである(パヘスのバイレはバレエ・ファンに好かれるような気がする)。しかし今回、実際にパヘスの舞台を生で観て、私は自分なりに彼女の凄さを実感することができた。


クライマックスの「エッセンス、本質」

 パヘスのバイレ・ソロも確かに良かったが、今回の公演で私が強く感動したのは、随所で見られたバイラオーラ7人による群舞である。それぞれの女性たちの個性をきちんと立てながら、ひとつの大きなうねりを生み出していく振付の素晴らしさ。女たちがバラバラに床を踏む音がひとつのビートを紡ぐ「恐怖」の振付には、“個人”と“集団”を複雑なフォーメーションで同時に表現する『ウエスト・サイド物語』の「Cool」にも似た面白さがあった。バイラオーラたちが着ていた衣装──パヘス自身の手による──もまた素晴らしい。印象的な肌色のドレスは女性の皮膚がモチーフで、そこにタトゥーのような特徴的な模様を入れることで個人を表現したという。最後の「エッセンス、本質」では、女性の内面を表したという美しい紫のドレスも登場した。

 そして、『カルメン』という誰もが知る古典を完全に書き換え、現代の女性たちへの普遍的なメッセージにしたパヘスの見事な演出力。『私が、カルメン』の凄さは、“カルメン”という女性像を日本人女性に置き換えて想像するとよく分かる。たとえば、アメリカの男性作家が日本を舞台にした『サユリ』という芸者の物語を書き、それが舞台化・映画化されて世界的な古典になったとする。日本人女性と言えば誰もがサユリのようなゲイシャガールをイメージするような状況があったとして、今度はそれに対して、日本の女性舞踊家が『私が、サユリ』という作品を作り、日本の伝統舞踊を用いながら現代のリアルな女性像を描いてみせる。あるいは、“女性”を“黒人”に置き換え、奴隷制時代から現在までのアメリカ黒人史を、現代アメリカの黒人舞踊家がジャズやヒップホップを使って描く『俺が、ジム・クロウ』というミュージカルを想像してもいい(かつてセヴィアン・グローヴァーが限りなくそれに近いことを『ノイズ&ファンク』でやった)。要するに、“カルメン”とは、男性による女性支配、蔑視、差別の象徴なのである。真っ赤なドレスを来たカルメンの女性像は、黒人史で言えば、ブラックフェイスの黒人像のようなものだ。その歪んだ女性像を、パヘスは鮮やかに粉砕する。『私が、カルメン』を観て、私は、演出家、振付家、表現者としてのマリア・パヘスのスケール感、そして、歴史や伝統を凌駕しながら生き続けるフラメンコという芸術の力に圧倒された。

 公演は休憩なしでちょうど80分(カーテンコールを除く)。5分以上続いたカーテンコールでは、ハイライト・ナンバーだった「日常の行進」のサビを出演者全員で計3回も歌い、最後まで観客を楽しませた。フラメンコには一般的に“血生臭い情念の世界”というイメージがあると思うが、『私が、カルメン』を鑑賞して私が強く感じたのは、意外にも“温かさ”だった。ほのぼのとして、温かい。フラメンコにそのような柔らかで優しい情感を表現できる力があることを私は初めて知った。『私が、カルメン』は、女性のステレオタイプと同時に、フラメンコのステレオタイプも見事に打ち崩していたのである。


カルメン、チャップリン、そして、言葉



 私が観た4月24日(金)の初日には、公演終了後に15分間の休憩を挟んで、客電の点いた場内でマリア・パヘスのアフタートークが行われた。ヴィヴィアン佐藤という美術家、通訳女性、パヘスの3者による約20分の質疑応答である(全容は次回の記事で)

 このトークショウで、パヘスは『私が、カルメン』の創作過程について熱心に語ってくれたが、その中でひとつ非常に興味深い発言があった。

「色んな作品が作られてきた『カルメン』ですが、中でもチャーリー・チャップリンが作った『カルメン』はとても素晴らしいものなので、皆さんにも機会があったらご覧いただきたいと思います。『珍カルメン(Burlesque on Carmen)』というタイトルで、『カルメン』のパロディ作品としては最初のものではないかと思います。従来の『カルメン』とは全く発想が異なっていて、最後にカルメンは殺されません。最終的に男性と女性がお互い笑い合う。私の作品も、男性と女性は共に手を取り合い、人生を共有しながら平等に歩んでいかなければならないという気持ちを込めて作りました。今回の作品に関して、チャップリンにはとても大きなインスピレーションを貰いました」


『珍カルメン』(左)、『独裁者』(右)

 その映画『珍カルメン/チャップリンのカルメン』(1915)は、同年に公開されたセシル・B・デミル監督/ジェラルディン・ファラー主演の大作『カルメン』、ラオール・ウォルシュ監督/セダ・バラ主演の『カルメン』に対抗してチャップリンが作った『カルメン』の喜劇版である。ドン・ホセ役がチャップリンで、カルメン役がエドナ・パーヴィアンス。『カルメン』の物語を利用してドタバタを繰り広げ、カルメンが刺し殺されるラストに“な〜んちゃって”というオチがつく。もちろん、後年の作品に較べれば完成度は低いし、おまけに映画会社によって勝手に手を加えられた代物なので、はっきり言ってそれほど面白いわけでもない。とはいえ、パヘスを触発したのがフラメンコ界のどのリメイクでもなく、チャップリン版だったという事実には、彼女の芸術的嗜好の幅広さや創作の自由さが表れていて面白い。

 トークショウでは何の言及もなかったが、この裏話を聞いて私が思い出したのは、『珍カルメン』の四半世紀後に作られたチャップリンの代表作『独裁者』(1940)だった。自身初の本格的トーキーとなったこの作品で、彼は映画の観客に向けて言葉を喋った。映画の最後に登場する、あまりにも有名な6分間の演説場面である。身体の動きと音楽だけで多くを語れるチャップリンがそこで言葉という表現手段をとったのは、言葉によってしか語ることができない、ある重要なメッセージを人々に伝えるためだった。喋ることは彼のスタイルに反していたが、彼にはどうしても言葉が必要だったのである。

 『私が、カルメン』は、世界中の女性文筆家たちが書いた詩に合わせて踊るなど、“言葉”に対するアプローチが目立つ作品だった。それは、女性が満足に教育を受けることができなかった過去や、知識や教養を身に付けた現代女性たちの力の象徴として提示されていた。しかし、それと同時に、パヘスが言葉に向かった背景には、やはりチャップリンと同じ理由があったような気がする。彼女には単純に、言葉を通して観客に伝えたいことがあった。それは、たどたどしい日本語で一所懸命に日本の観客に語りかけた「日常の行進」の“演説”によく表れていたと思う。恐らく、パヘスにとってフラメンコは飽くまでも手段であって、決して目的ではない。表現したいことがまず最初にあり、そのために彼女は自分が最も得意とするフラメンコという手段を使うが、それでも伝えきれない場合、他のどんな要素も──たとえそれがフラメンコの伝統から外れるものであっても──柔軟に取り入れる。今回はそれが“言葉”だった。そういうことではないだろうか。決して奇を衒っているわけではなく、結果として彼女はフラメンコの常道を逸してしまう。マリア・パヘスの凄さは、表現というものに対するそのような貪欲さ、あるいは、真摯さにあるように思う(もっとも、“言葉”はそもそも歌詞としてフラメンコに最初からある要素なので、今回の作品でパヘスはそれほど変わったことをやっているわけではないと思う。カンテを言葉として聞くことができない私たち日本の観客には、“言葉”という要素がやけに特殊に感じられるのではないか)

 女性の、女性による、女性のための、いわば“『真カルメン』”。マリア・パヘスの女性賛歌は女性客の心に深く響くものがあったと思うが、『私が、カルメン』は男性の私にも十分に楽しめる作品だった。伝統や歴史に従うのではなく、それに挑戦し、塗り替えようとするパヘスの姿勢に私は強い感銘を受けた。『私が、カルメン』を観た後では、もう普通の『カルメン』なんか観られない?!




■アフタートーク後には、会場でパンフレット/CD(各2,000円)を購入した観客を対象にマリア・パヘスのサイン会も行われ、女性客が長蛇の列を作っていた(私はさっさと帰ってしまったが)。販売されていたCDは『Yo, Carmen』の公式録音盤。ネットでも買えるだろうと思い、私はパンフしか購入しなかったが、後でよく調べてみたら、パヘスの公式サイトの通販リストにもない('15年5月現在)レア・アイテムだった。その場で買わなかったことを激しく後悔。

■会場の配布チラシで衝撃の来日情報。今秋、サラ・バラスとロシオ・モリーナが立て続けにやってくる。ガオ〜!!! サラ・バラスは、パコ・デ・ルシア、アントニオ・ガデスらフラメンコ界の巨匠にオマージュを捧げる新作『ボセス〜フラメンコ組曲』('15年9月21〜22日、東急シアターオーブ)、ロシオ・モリーナは、相棒のロサリオ・ラ・トレメンディータと組んだ'12年初演の大傑作『アフェクトス』('15年11月23日、東京国際フォーラム/11月26日、森ノ宮ピロティホール。「Chiribi Chiribi」がまた生で観られる!)を引っ提げての来日。サラ・バラスは10年ぶり、超待望の再来日。フラメンコ・フェスティバルの一環で、サラの他にアンダルシア・フラメンコ舞踊団の公演も行われる。ものすごいラッシュ。おまけに、12月にはシルヴィ・ギエムの引退公演も控えている(ついでに『CHICAGO』の久々の来日公演もあったりする)。鼻血が出そうだ。



マリア・パヘス舞踊団『私が、カルメン』
【東京公演】
2015年4月24日(金)〜26日(日)
Bunkamura オーチャードホール
【兵庫公演】
2015年4月28日(火)〜29日(水)
兵庫県立芸術文化センター KOBELCOホール



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