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山口百恵は菩薩だった

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山口百恵は菩薩である
平岡正明・著
講談社(1979/増補・文庫版 1983)

 山口百恵に関するエントリー三連発のおまけとして、『山口百恵は菩薩である』について簡単に私の感想を述べておきたい。百恵ファンになった場合、あるいは、彼女について真剣に語ろうとした時、この本は避けては通れないものだと思うからだ。


 これは、音楽ではジャズを得意分野としていた平岡正明という評論家が、百恵が歌手活動を行っていた同時代に、表題通り“山口百恵は菩薩である”というテーゼのもと、山口百恵という歌手がいかに偉大で素晴らしいか、ということを延々と語った本である。山口百恵が菩薩? 何それ? という問いに対して平岡は、菩薩だから菩薩なのだ、という以上のことは語らない(語っているのかもしれないが、正直、私にはよく分からなかった)。但し、そう主張する気分は伝わってくる、そんな本である。

 この本を、私は山口百恵にハマって1ヶ月くらいの時期に読んだ('83年増補版)。ちょうど百恵に関する言説に飢えている時だったので、これを私は貪るようにして読みふけり、丸半日かけて読了した(ちなみに、この評論家の著作を読むのはこれが初めて)。

 読み始めて私が個人的にまずピンと来たのは、この平岡という著者が「秋桜」という百恵の代表曲を全く評価していない点だった。そこで私には、彼が山口百恵という歌手を非常にシリアスに捉えようとしていることが直感され、この決して短くはない本に、最後まで読んでみる価値があるように思われた。そして、実際にその価値は、私個人に関しては、確かにあったと言える。

 まず、山口百恵は菩薩である、という点については、議論の余地はないだろう。イエスは神の子である、と言うのと同じことだからだ。山口百恵は○○である、の“○○”は、我々を圧倒するとんでもない何かでありさえすれば、基本的には何でもいい(例:山口百恵は怪獣である/山口百恵は伝染病である/山口百恵は魔女である/山口百恵は物の怪である/山口百恵は宇宙人である)。そこに“菩薩”を当てたのが平岡という物書きの切れていたところで、当時、山口百恵を“とんでもない何か”だと感じていた人たちは、この平岡の提唱に、我が意を得たり、ありがたやと飛びついた。あとは何を書こうと、信じる人は信じるし、逆に、分からない人は最後まで分からない(仮に百恵が宇宙人であったとしても、平岡は立派にそれを“証明”してみせただろう)。結局、この本で一番よく書けているのは書籍名である、と言っても過言ではないのだが、それでも、もし、あなたが山口百恵という歌手に真剣に耳を傾ける音楽ファンであれば、実際に入手して中を読んでみる意味は、多かれ少なかれ、ある、と言っておきたい。

 この本で平岡は、手持ちのネタ(知識)を濫用してどうでもいいようなことをたくさん書いているが、同時に、百恵という歌手を読み解くに当たって手掛かりとなるような有意義な指摘もたくさんしている。私が今回の百恵エントリーで書いた『居酒屋』やフリートウッド・マックに関する余談を面白がって読むようなタイプの人には、読み応えのある本に違いない。アクの強い文体や、何でも自分のテリトリーに引き込もうとする手つき、平岡の文筆家としての意識の在り方などに嫌悪感を覚える向きもあるかもしれないが、それを我慢できれば、それなりに収穫を得られる本と言えるのではないか(飽くまで、山口百恵を考察・研究する者、あるいは、何にでも好奇心が旺盛な人にとっては、の話だが)。

 '79年の出版当時、この本はかなりの反響を呼んだようだ。この本によって、“菩薩”という言葉は、山口百恵に対する形容詞のひとつとしても世間に浸透した。リアルタイムで山口百恵という歌手を愛した音楽ファンの中には、この本に影響を受けている人も少なくないと思う。一方、“言ったもん勝ち”的な平岡の言説を好まない百恵ファンが、同じくらい多くいただろうことも十分に想像がつく。

 '00年代の次世代百恵ファン、あるいは、単なる音楽ファンのひとりとして、私はそうした賛否両論のどちらにつくこともできない。あまり一般性のある例えでなくて恐縮だが、私がこの本から受けた印象は、何と言うか、大昔のハリウッド映画でアル・ジョルソンやエディ・カンターといった白人役者のミンストレル芸を目にした時のそれに近い。現在の視点から彼らの芸を人種差別的だと批判することは容易いのだが、しかし、結局のところ、それはもはや否定も肯定もしようがない類のものなのである。

 非リアルタイム世代として、'08年になって『山口百恵は菩薩である』を初めて読んだ私の率直な感想を述べると、とにかく、そのように痛烈に時代を感じさせる本であるということ。平岡のギャグセンスも相当に古くさいのだが(単純に意味不明なこともある)、何より、その文章が持つある種の熱気や態度に時代を感じる。そして、現代の若者に読まれる場合、菩薩という類型で山口百恵を捉えることに一体どれほどの意味や魅力があるのだろうか、という疑問。この本をバイブルとするような今の若い世代の百恵ファン像というものを、私は全く想像することができない。'00年代における一般的な読み物としては、完全にアウトなのである。'79年初出本のあとがきで平岡は、“向こう五年間、本書を超える山口百恵論は出ないであろう”と書いているが、それは単純に、この書物自体が持つ寿命(有効期限)を意味していたのではないかという気もする。

 では、『山口百恵は菩薩である』が今読まれることの最も重要な意味は何かと考えれば、この書物それ自体が、当時の日本で山口百恵がいかなる存在であったか、ということを伝える歴史的物証になっていること──これに尽きると思う。

 とにかく、この本を読んでいると、山口百恵という歌手は、当時の硬派な音楽ファンにここまで熱くシリアスに聴かれていたのか、という驚きの連続なのである。それは、別に平岡正明という人の頭がおかしかったわけではなく(本書を読む限り、音楽に対する彼の感受性・読解力はそれなりに信頼できると思う)、当時この本がかなり多くの人に支持されたことを見ても間違いないことだろう。そもそも、こんなふざけた本が講談社から堂々と出版され(1年後に『菩薩のリタイア』という続編まで出ている)、それで平岡正明という評論家が立派に喰えていたらしいことからして、今となっては衝撃的である。この本は、山口百恵が巻き起こした当時の社会現象の、ひとつの生々しい痕跡と言っていい。

 '08年に山口百恵を聴き込んでひとり興奮していた私は、この書物を冒している熱病の異常さを見て、そして、静かに了解したのだった。そうだ──山口百恵は、やはり、とんでもなかったのだ。みんなこの女にヤられたのだ。
 
 そして、思う。
 ここまで聴き手を熱くさせる歌手が、現在いるだろうか?
 本一冊分の文章を費やしてまで語りたくなる歌手が、いるだろうか?
 そもそも、そんな歌手が今の時代に存在し得るだろうか?
 
 かつて、山口百恵は菩薩だった。
 後世の私たちは、この本でそのことをただ確認すればいい。
 


山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 1)
山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 2) ~『横須賀から来た女』
山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 3) ~『VITA SEXUALIS』

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