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ナイルとボウイの黒い絆



「溺れかけていた俺を、彼は救命ボートに引っ張りあげてくれたんだ」

──ナイル・ロジャーズ(14 January 2016, Standard.co.uk


 ダフト・パンクとの共演が大当たりして以降、ディスコ/ブギー流行りの波に乗って再び黄金期を迎えているナイル・ロジャーズローラ・マヴーラの新曲にまでフィーチャーされているのにはビックリ)。'70年代後半、シックの大成功によってディスコ時代の寵児となった彼は、'70年代末からアメリカでディスコへの風当たりが強まるのと同時に失速を始め、'80年代初頭には、本人曰く“誰からも電話の返事がもらえない奴”にまで落ちぶれてしまった。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、デヴィッド・ボウイだった。

 '82年秋にニューヨークのクラブで邂逅したナイルとボウイは、すぐに意気投合し、一緒にアルバムを制作することになる。スイスのボウイ邸でデモ制作を行った後、ニューヨークのパワー・ステーションでわずか17日間で仕上げられたそのアルバム『Let's Dance』('83年4月14日発売)は、全世界で爆発的な大ヒットを記録。ボウイとのコラボレーションの成功により、以後、ナイル・ロジャーズはインエクセス、デュラン・デュラン、マドンナなど白人ポップ勢のヒット作を次々と手掛け、'80年代にプロデューサーとして第二の黄金期を迎えることになる。一方、'70年代に在籍したRCAとの契約が'82年に満了し、移籍先を探していたデヴィッド・ボウイは、自費で制作した『Let's Dance』を携えて'83年1月にEMIと巨額の契約を交わし、ポップ・スターとして新たなキャリアを歩み始めることになった。アルバムの予想を超える大ヒットが、その後の彼の迷走を引き起こしたことはよく知られるところだろう。『Let's Dance』は、まさに両者の人生を大きく変えた作品だった。

 '16年1月10日のデヴィッド・ボウイ他界に際して、ナイル・ロジャーズは英米の多くの音楽メディアからインタヴュー取材を受けた。そこでナイルは、ボウイのことを“ロックンロールのピカソ”と讃え、『Let's Dance』の制作や、時に自身の癌との闘病体験も交え、同じく癌と闘ったボウイとの親交を振り返っている。それらはどれも貴重な話だが、実はデヴィッド・ボウイとの仕事についてナイルは過去にも多くを語っていて、時には、故人を振り返る場では言いにくいような裏事情や不満も率直に明かしている。特に、『Let's Dance』の10年後に両者が再び組んだアルバム『Black Tie White Noise』('93年4月5日発売)制作時におけるボウイとの確執や、ボウイとの仕事を通してナイルが経験した黒人アーティストとしての様々な葛藤についての話──これらは'16年のインタヴューではほとんど触れられていない──は、非常に興味深いものである。

 今回は、デヴィッド・ボウイ追悼も兼ねて、ナイル・ロジャーズがボウイとの仕事について語ったこれまでのインタヴュー発言を、'16年1月の最新発言も含めて一気に紹介する(ナイル発言の補足として、デヴィッド・ボウイ本人の発言もある程度拾っておく)。ポピュラー音楽における“黒”と“白”の違い、また、それを越えた両者のミュージシャン/人間としての深い絆が、この発言集の中にはっきり読み取れるだろう。『Black Tie White Noise』発表時に撮られた上掲の写真──ナイルの肩を抱いて笑みを浮かべるボウイに対して、ナイルにはどことなく遠慮が感じられる──も、これらを読むとより感動的なものに見えるはずだ。

※以下のインタヴュー発言はすべて拙訳によるが、日本の2つの音楽誌(Crossbeat、Rockin'on)での発言は、作品名表記や一人称を変更した以外、基本的に日本語の原文をそのまま引用した。


BLACK TIES BETWEEN NILE RODGERS AND DAVID BOWIE

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DAVID BOWIE on LET'S DANCE

「彼(ナイル)とは何ヶ月か前にニューヨークのクラブで知り合った。大島渚の『戦場のメリークリスマス』から帰ってきてすぐにね。僕らは古いブルースやR&Bのレコードについて話して、2人とも同じようなアーティストから強い影響を受けてることが分かったんだ。彼と組んだら面白いかもしれないと思ったのは、それがきっかけかな。彼の作品はベース・サウンドやドラムの使い方がほんと素晴らしいと思ってたし、このアルバムのリズム・セクションについても彼はものすごい貢献をしてるよ。僕の持ってるヨーロッパ的な色とあわせ、彼と組んだらどういう結果になるか試してみたら面白いんじゃないかと思ったのさ。
 ギタリストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、バンドを組むということに関して僕の原点を象徴する人間だ。彼はテキサス州のオースティン出身、しかも、そこのブルース・バンドで弾いてる男なんだよ! 1年くらい前にモントルー・ジャズ・フェスティヴァルで見て、彼のトリオはマディ・ウォーターズかなんかの前座だったんだ。彼はとにかく凄まじいよ。彼にとっちゃジミー・ペイジなんかモダニストなのさ! アルバート・キングの時代に立ち返ってる男でね。彼は神童だよ。
 あと、いつもの馴染みの仕事仲間から離れて、ちょっと気分転換したかったというのもあってね。今まで全く組んだことのない連中とやってみたかったんだ。どういう演奏をするか予測できないのがいいと思って。僕がスタジオでどう仕事するか、向こうも見当がついてなかったしね。それに、僕は2年もレコーディングしてなかったから、新しい人選で試してみるいい機会だった。ナイルが残りのメンバーをほとんど揃えてくれたよ。ウェザー・リポートのオマー・ハキム、ノーナ・ヘンドリクスのバンドのカーマイン・ロハスとか。スティーヴィーとナイルがギターを弾いて、それが核になったんだ」(May 1983, Musician

「〈Modern Love〉なんかでちょっとしたコール&レスポンスをやってるのは、全部リトル・リチャードの影響なんだ」(April 1997, Guitar Player

「リトル・リチャードは僕の神様だった。初めて彼のレコードを聞いたのは子供の時でね。父親が買ってきてくれたんだ。真ん中にデカい穴が空いた45回転のやつで、家には78回転のプレーヤーしかなかったもんだから、ちゃんと聴けなくてさ。何とか聴いてやろうと、ターンテーブルの真ん中の軸のところにはまるものを必死に探したよ。当然回転数が速かったんだけど、遅く回転させる方法を発見して、聴いてみて思ったね、“うわ!こりゃすごい!”って。それから近所のレコード屋で78回転のやつを注文してさ。イギリスではまだ78回転が主流で、45回転を買ったのは何年も後のことだった。リトル・リチャードは当時、僕に最も大きな影響を与えた人で、とんでもないパワーがあって、バックのサックス陣も凄かった。バリトンとテナーが2人いて、とても感銘を受けたよ。それで僕はテナー・サックスを買った。そうやって僕の音楽人生は始まったのさ」(January 1988, Words And Music

「8才の頃、大きくなったらリトル・リチャードのバンドのサックス奏者になりたいと思ったんだ。……(実際に彼のバックでサックスを吹いたことは?)それはない。ある晩、彼とピアノを弾く機会はあったけどね。楽しかったよ。それまで会ったことはなくて、長年、彼は僕にとって正真正銘のヒーローだった。何年か前に会っただけなんだ。おかしなことに、それまで長い間、僕は彼の目の色が左右違うことに気づかなかったんだよね。それを知ってぶっ飛んだよ!」(October 1996, VH1 Fashion Awards Show

「僕みたいな目をした人間にはリトル・リチャード以外に会ったことがない」(May/June 1993, Arena)

※リトル・リチャードの目の色(または瞳孔の開き方)が本当に左右違うかどうかは不明。ネットで様々な写真を確認する限り、とてもそのようには見えない。ボウイが会った時、リトル・リチャードはカラーコンタクトでもしていたのではないか。ちなみに、2人が会ったのは'90年頃と思われる(一緒に写っているスナップ写真あり)。

「(〈Shake It〉〈Let's Dance〉〈Without You〉にシックのグルーヴが感じられることについて)リズム・パターンにナイルが関わったらああなるってもんでさ。あれは彼の腕のなせる業だよ。……実際のリズムに関しては僕の発案じゃない。しかし、そうは言っても、君が挙げたその3曲を聴けば、僕が『Young Americans』でやってたものとそんなにかけ離れてるわけでもないだろ」(May 1983, Record

「『Let's Dance』は、アート・スクール出身の白人イギリス人のアメリカ黒人ファンクとの出会い、というものの再発見で、『Young Americans』に焦点を合わせ直したものだね」(September 1991, Details

「僕は『Let's Dance』がものすごく好きなんだ。……あのアルバムで音楽的に何が行われていたか、当時のミュージック・シーンを考慮して思い返してもらえれば分かるけど、あれはファンクとゴリゴリのブルース・ロック・ギターを混合した、かなり革新的なアルバムだったんだよ。もちろん、こっちの方が『Thriller』より早かったわけで、ファンクの曲にリード・ギターを乗せてみようというヒントを、マイケルにもきっともたらしたんじゃないのかな(笑)」(April 1992, Rockin'on

※一応つっこんでおくと、『Thriller』が発売されたのは'82年11月30日で、『Let's Dance』('83年4月14日発売)より制作/発売時期は完璧に早い。

「〈Ricochet〉は大好きで、すごくいい曲だと思ってた。ビートがおかしいんだよね。拍がずれてて、シンコペーションが間違ってる。自然にいかなきゃいけないところを、ぎこちないノリになってるんだ。あの曲はツアーでやりたいな。今度は正しいビートでね。あれはナイルの仕業なんだけど、曲を書いた時に僕が考えていたのとは全然違うビートだった」(August 1987, Musician

「はっきり言って、〈Let's Dance〉という曲はそもそもアルバムの中の単なる1曲でしかなかったんだ。ああいう風に作り上げ、強烈なコマーシャル性を持たせたのはナイル・ロジャーズなんだよ」(Jun 1990, International Musician

「〈Let's Dance〉という曲は僕の人生を無茶苦茶にした。あの曲は僕を……僕はうっかり自分を商業主義の世界に放り込んでしまったんだ。あんなに成功したことなんてなかったもんだから、“どんな感じだろう?”、“リムジンの乗り心地はどんなだろう?”みたいなさ(笑)。あんなの本当になかったしね、ジギーだった初期の頃を除けば。メインマン(ボウイのジギー時代の事務所)と手を切ったのと同時に、そういうのからは離れたんだ。リムジン生活なんて僕が望んでいたものじゃなかった」(24 March 2000, The Golden Years, BBC Radio 2)

「僕はナイルに“〈Let's Dance〉なんてシングル曲じゃないよ”と言った張本人だったくらいで。それをナイルが“いや、これは絶対ヒットする”と言ったんだ。僕は“そんなわけない、勘弁してくれよ、だったらまだ〈China Girl〉のほうがマシだ、〈China Girl〉をシングルにしようぜ”、“いや、絶対に〈Let's Dance〉が大ヒットだ”って。最後には、“ったく、わかったよ、好きにしてくれよ(笑)、どうでもいいよ、僕はどうせシングルのことなんてよくわかんないし”ってね。それで〈Let's Dance〉がシングルになったんだけど、そしたら信じられないようなヒット曲になって、誰もがそのショックから立ち直れなくなった。やばい、なんだかおかしなことになっちゃったなあ、ってね。……とはいえ、最初の1〜2年は、メインストリームも悪くないなあ、皆が僕を知ってるのはいいもんだなあ、とか思ってたんだけどね。でもやっぱり、すぐにその反動がきて、自分の中で何かが壊れてしまったんだ」(July 2002, Rockin'on


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NILE RODGERS on LET'S DANCE

「“ディスコはゴミだ(Disco sucks)”という風潮が'79年頃から広まって、俺は世界で一番イケてる奴から、誰からも電話の返事がもらえない奴にまで落ちぶれた。でも、'82年にデヴィッド・ボウイと会って、それが変わったんだ。
 初めて俺たちが出くわしたのは、コンチネンタルというニューヨークの深夜クラブだった。一緒にいたビリー・アイドルがすぐに彼に気づいたんだ。でも、みんな気づいてなかった。彼は、メイクをしたロックンロール・スターと言うよりは、むしろクラブのマネージャーみたいな格好をしてた」(12 January 2016, New York Post

「'82年、俺はビリー・アイドルと一緒にコンチネンタルへ行った。奴はデヴィッドを見て、“やべえ、ありゃデヴィッド・ボ……”と言いながらゲロって、袖で口を拭ってた。奴を置いてさっさとデヴィッドのところへ行ったよ。俺は吐かなかったからね(笑)」(12 January 2016, Rolling Stone

「デヴィッドと俺は、コンチネンタルというニューヨークのすごく大きな深夜クラブで知り合った。午前5時頃にビリー・アイドルと一緒に店に入り、俺たちは同時に彼を発見した。ビリーは“やべえ、デヴィッド・ボウイだ!”。俺はデヴィッドのところへ行って話しかけた。2分もしないうちに、俺たちは精神的にも芸術的にも通じ合った。その晩は他の誰とも話さなかったな。
 俺たちは一晩中、ジャズについて語り合った。デヴィッドは音楽研究家並にジャズに詳しくてさ。俺が誰かの名前を出すと、“うわっ、彼の3rdアルバム買ったよ!”って。長年の付き合いの中で、デヴィッドとは約束していたことがあってね。残念ながら実現しなかったけど、いつかドクター・ジョンの〈I Walk On Guilded Splinters〉をカヴァーしようと話してたんだ。その無茶苦茶なアイデアを思いついたのは、あの晩のことだったと思う」(12 January 2016, Time

「(ボウイとのクラブでの出会いは)まったくの偶然だったんだ。彼はただ座って、気楽にくつろいでた。それまで俺はビリー・アイドルと喋ってたんだけど、奴は俺にゲロを吐きそうでさ。飲み過ぎて吐くもんだから、俺はさっさと避難した。目立たないところにデヴィッドがいるのにたまたま気づいてね。彼はそこに座って一人で静かにしてて、それを見て俺はなかなかクールだなって。で、一緒に座って、すごく気楽に喋ったんだ。冷え冷えとした格納庫みたいな一郭で、あれは多分、VIPエリアだったんじゃないかな。2人で色んな話を次から次へとしたんだ。俺は音楽史にすごく興味があるんだけど、イギリスのポップ・スターが音楽や文化の歴史に詳しいことにはいつも驚かされるね。彼らは本物の音楽愛好家でさ。これがアメリカのポップ・スターとなると、知識量なんて大抵たかが知れてるわけで。とにかくデヴィッドと俺はすごく話が合って、ルイ・ジョーダンからヘンリー・マンシーニに至るまで、色んな人間のことを話したんだ。イギー・ポップに関する俺の知識はずっと昔に遡るんだけどね。デヴィッドがイギー・ポップの話を始めた時はおかしかったよ。俺にしてみりゃお笑い草で、俺はあんたが知る前から彼を知ってるんだぜ!っていう。昔、俺らはストゥージズの前座をやってたことがあるんだ。アリス・クーパーが俺らの前座だったこともあったな。デヴィッドは彼の大ファンで、ああだこうだ話してくれるんだけど、俺は“おいおい、そんなもん全部知ってるよ、俺はその場にいたんだよ!”っていう。言っておくけど、俺は長いことずっとデヴィッド・ボウイの大ファンだったんだよ。つまり、バンドに入って一緒に演りたいと俺が常々思ってたアーティストの一人なんだ。初めてレコードを聴いた時から大ファンだった。『Hunky Dory』を聴いて以来ね」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story

「初めてデヴィッド・ボウイを聴いた時のことは覚えてるよ。なにせ裸だったもんでね! 最高だったよ。とびきりロマンチックでゴキゲンなヒッピー的状況でね。俺はマイアミ・ビーチのナイトクラブで演奏してたんだけど、当時、そこにはヌード・ビーチがあってさ。クラブで写真を撮ってた女の子から“夜のビーチで裸でデヴィッド・ボウイを聴きましょ!”と誘われたんだ。彼が何者かさっぱり分からなかったけど、2人で『Ziggy Stardust』を聴いてね。とにかく最高だった」(11 January 2016, The Guardian

「彼のバックでギターを弾きたい、といつも願ってた。それが彼をプロデュースまでするなんてね。まるで夢見てるみたいだったよ。一番好きなのはやはり『Ziggy Stardust』だな。他のアルバムもいいけど、『Ziggy』ほどじゃない。曲/コンセプトも何もかもが素晴らしい」(May1993, Crossbeat

「(クラブで意気投合した後)カーライル・ホテルで彼ときちんとした仕事上の打ち合わせをすることになって、俺はビジネス・スーツを着て出かけた。コンチネンタルで会った時みたく、いかにも“シックのナイル・ロジャーズ”というイカレた格好はしてなかった。だからボウイは俺だと分からなかったし、こっちもボウイに気づかなくてね。彼は普段着だったから。
 最高なのは、ボウイがカーライル・ホテル内に1人しかいなかった黒人をナイル・ロジャーズだと思わなかったことさ。当時ならそう決めてかかっても人種差別的なことじゃなかっただろうね。彼は俺のことをたまたまカーライルに居合わせた別の黒人だと思って、声をかけてこなかったのさ。俺たちは20分も同じ場所にいたのに、どちらも話しかけなかった。最終的に俺は彼のオフィスに電話して、彼はいつ頃やって来るのか訊いたんだ。そしたら、もうそっちにいるよって! 2人で大笑いしたよ」(12 January 2016, New York Post

「彼と出会ってから一週間もしないうち、向こうから電話があって、そこから『Let's Dance』の制作が始まった。アルバム用の曲を書く前に、俺たちは下準備として、色んなレコードを聴いたり、どういうアルバムにしたいか、全体的にどんな音にするべきかを話し合った。ある日、デヴィッドが“ナイル、こういう音にしたいんだ”と言って、赤いスーツ姿のリトル・リチャードが赤いキャデラックのオープン・カーに乗り込んでる写真を見せてきた。そんなのどう音にするよ?! でも、実際の話、俺には彼の言わんとしてることがはっきり分かった。そこで俺は、デヴィッド・ボウイが“ロックンロールのピカソ”なんだと悟ったよ。そう言われるのを彼は心地よく思ってなかったけど、俺はそう呼ばせてもらった。彼は世界を抽象的に捉えるからさ。皆と同じように眺めるのと同時にね。その写真は、別にレトロな音にしたいとか、リトル・リチャードの作品をもとに何か作りたいとか、そういうことじゃなくて、常にモダンに感じられるものがいいという意味だった。彼が俺に示したのは未来と過去であり、いつまでも色褪せないものだった。美しくデザインされたキャデラック、そして、赤い単色のスーツ。その写真は'60年代に撮影されたものだったけど、3000年の人間の目にだってモダンに映るだろうよ!」(11 January 2016, The Guardian

「その写真は'50年代か'60年代初頭に撮られたものに違いなかったけど、モダンに見えた。キャデラックはまるで宇宙船みたいだったし、リトル・リチャードの単色の服は、後に黄色い単色スーツを着た黄色い髪のデヴィッド・ボウイへ繋がるものだった。
 その写真を見せられた時、ロックンロールに根差したモダンでタイムレスなサウンドを彼が求めていることが分かったよ。彼が言うロックンロールってのは、ロックンロールがそもそも意味していたところのそれだった。それはレイス・ミュージックであり、ブラック・ミュージックであり、つまり、タブーだった音楽のことだ。人々から支持されたけど、批評家たちからは“何だ、この黒い音楽は?”と言われたものさ。俺はその1枚の写真からそういうことをすべて了解した」(12 January 2016, Rolling Stone

「〈Modern Love〉は、すごくリトル・リチャード的な連打ピアノが入った古いディキシーランド・ジャズ調のロックンロールで、そこにとても洗練されたジャズ・ホーン・サウンドが乗っかってるんだ」(May 1983, Musician

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リトル・リチャード(左)、ジェイムズ・ブラウン(右)

※ナイルがボウイから見せられたという“赤いスーツ姿のリトル・リチャードが赤いキャデラックのオープン・カーに乗り込んでる写真”を探したが、残念ながらそれらしき写真は見つからなかった。代わりに上の2枚の写真を示しておく。多分、『Let's Dance』でボウイはこうなりたかったのだと思う。


「今までの長いレコード作りのキャリアの中で俺が一番緊張した瞬間は、部屋に入っていき、ギターを手にして、〈China Girl〉の出だしのリフを(ボウイに)弾いてみせた時だね。俺は芸術的で素晴らしい偉大な作品をガキ向けみたいにしちまってる気がして、ビクビクしてたんだ。そんなの冒涜だ、君にはこの作品が分かってない、僕のことが分かってない、と言われると思って。クビになるんじゃないかとね。ところが、まったくの正反対だったんだ。彼は“素晴らしい!”と言ってさ。おかげで俺はこの最高の作品を作るための自由を得られたんだ。
 俺は(スイスの)彼の家に滞在して、彼はデモを聴かせるか、でなけりゃ実際に歌ってくれた。12弦ギターで軽くやってくれてさ。彼は俺に〈Let's Dance〉をフォーク・ギターで聴かせたんだよ! 彼の用意してた曲には正直、唖然としたね。アメリカの黒人音楽の世界じゃ、気風に合わせないとラジオでかからなくて、皆に聴いてもらえないんだよ。黒人アーティストの歌詞は底が浅くて、セックスのことばかり歌ってるって批判をしょっちゅう聞くけど、実はそれにはちゃんとした理由があってさ。黒人アーティストには探求すべきまともな知的題材がないんじゃなくて、単純な話、それだとラジオでかけてもらえないんだよ。今、俺はヒップホップの連中とやってるけど、俺に向かって弁解するんだよね、“ロジャーズさん、誤解しないでくれ、俺たちはこんなこと好きで歌ってるわけじゃない、ビッチとかニガーとか言って罵らないとかけてもらえないんだよ!”って。黒人アーティストたちは、創作面で白人アーティストにはない制度に縛られてるんだ。シックの頃に俺がやるようになった曲の書き方ってのは、ずっと昔にポール・サイモンのインタヴューで読んだことで、それを念頭に置いたものなんだけどね。曲を書く時、その曲がかかりそうなラジオ局をじっと想像してみて、そこのローテーションにしっくりくるように感じられたら、その曲は間違いないっていう。そこでアーティスト的には、自分に正直に曲を書き、皆もそれを受け入れるのが当然じゃないのかって話になるんだけど、アメリカの黒人アーティストの置かれてる状況はそんなもんじゃないんだよ。売れ線を意識しなきゃいけないし、何が受けるか考えないとダメなんだ。
 彼には〈China Girl〉のデモが用意してあって、俺がまず思ったのは“畜生、白人はいいよな!”ってことだった。深い意味がある複雑な歌を書いたっていいんだからさ。これが黒人音楽の世界だと、もし〈China Girl〉って曲があった場合、中国で知り合った女の話とかにしておいた方がずっといいんだよ。もっと文字通りでなきゃダメなのさ。デヴィッドは俺に最高の仕事をして欲しいと、すごく明確な指示を出したんだ。つまり、当ててくれ、と。売れるものを作るとなれば、俺は自分の知ってる定石を持ち出すまでだった。つまり、〈China Girl〉っていう曲なら、アジアっぽいサウンドにした方がいい。〈Let's Dance〉っていうんなら、そりゃもう踊れる曲にするしかないってことさ」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story

「当初、彼が俺に何を期待してるのかよく分からなかったんだけど、俺に最高の仕事をさせようとしてるってのは分かったよ。ピンと来たんだ。俺がスイスに着くと、彼は俺にできる限りを尽くして欲しいと言った。“ナイル、マジで売れるやつを作って欲しいんだ”と言われて面食らったよ。デヴィッド・ボウイってのは芸術第一で、偶然ヒットしたらそれはそれ、って感じの人間だとてっきり思ってたもんだからさ。俺はとにかく“これはちょっと変わった芸術的実験になるぞ”と思ってたね。スイスで最初に彼がギターで聴かせてくれたのが〈Let's Dance〉だった。12弦ギターで、確か弦が6本しか張ってなくて、音もショボかったんだけど、そいつであの曲を歌ってくれて。で、これがもろにフォーク調の歌でさ! なんだこりゃ、と思ったよ。でも、彼はヒットになるだろうと確信してた。それから俺はそいつにずっと取り組み続けた。俺たちはスイスでいくつかデモも作ったけど、それは俺にしてみれば単なる雛型で、小さな地図というか、“よし、曲ができた”ってだけのものでしかなくて。さてと、アメリカに戻ってこいつをヒット曲にしようぜ、ってね」(24 Mar 2000, The Golden Years, BBC Radio 2)

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「俺たちは『Let's Dance』をパワー・ステーションで録音した。ずっと笑ってばかりいたよ。でも、デヴィッドには自分の欲しいものがはっきり分かってた。彼が欲しかったのはヒット作で、尚かつ実験的なものだった。その通りになったよ」(12 January 2016, New York Post

「ほとんど全部ワン・テイクだった。スティーヴィー・レイ・ヴォーンはほぼ2〜3日ですべて録音した。デヴィッドはアルバム全部のヴォーカルをほぼ2日で終えたよ。何もかも、どの曲も、細かい部分も含め、数日しかかからなかったんだ。ざっと通しで歌ってね。彼にはたまげたよ!」(24 Mar 2000, The Golden Years, BBC Radio 2)

「こんなに速く仕事したことは今まで本当にない。午前10時頃にスタジオ入りして夕方まで作業、それが週6日続いた。レコーディングに入る前に3日かけてデモを作っておいたから、実際にスタジオ入りした時点で何が欲しいかはっきり分かってたんだ」(May 1983, Musician

「スティーヴィーは最高に素晴らしかった。俺は奴に惚れ込んだし、俺たちはあっという間にソウルメイトになった。彼と俺は兄弟同然の仲になってね。俺はあいつの葬式で弔辞も述べたよ。ボウイがまさに天才的だと思うのは、俺のバックグラウンドと自分のバックグラウンドとスティーヴィー・レイの間に、素晴らしいスタイルの融合を見出す目があったってことなんだ。デヴィッドには、これはきっと上手くいく、という勘や予感があって、色んなジャンルの色んなミュージシャンをまとめる俺の能力を信頼してくれたのさ」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story

「スタジオでデヴィッドはソファに寝転んで“ナイル、頑張れ!”とか言ってた(笑)。というのも、『Let's Dance』の大半の曲は以前からあったもので、彼は曲をよく知ってたから、驚きが欲しかったんだよ。俺を監視して“ああしろ、こうしろ”なんてことは言わなかった。彼はやって来て、どんな魔法が起きてるのか見たがった。だから、アルバム制作中のほとんどの間、彼は俺とスタジオ内にいなかった。彼は別の部屋にいて、様子を覗きに来るだけだった。俺はそのやり方をとても気に入ったよ」(12 January 2016, Rolling Stone

「アメリカで黒人でいると、自分が黒人だと思い知らされない日はない。そんなの俺には関係ないことだ。中には俺のことを見て不愉快に感じる人もいる。いつだってそうなんだ。でも、ボウイと一緒にいる時、俺はそんなこと少しも感じなかった。彼は『Let's Dance』を、俺とか、それまで会ったこともない連中と一緒に作ったけど、彼は全幅の信頼ですべて任せてくれた。“ナイル、僕のヴィジョンを形にしてくれ。君にかかってる”って感じでね。
 アルバムはミックスも含めて17日ですべて完成した。〈Let's Dance〉に4つの別ヴァージョンとか、〈Modern Love〉に5つの別ヴァージョンなんてない。全部一発で決まりだ。多くの時間、彼は休憩室でテレビを見ていて、たまに様子を見に来ては“ワオ!”と驚き、また出ていくという感じだった。俺は思ったね、“こんなに最高のリスペクトを人からもらったことはない”って。
 俺たちはあのレコードを黒人のレコードと同じやり方で作った。1曲録ったら、次へ行くっていう。外部の人間が文化とか習慣を芸術的な目で眺めるようなものだった。深く考えたりせずにね。黒人アーティストたちの予算は、ロックンロールの連中の予算とは違ってたからさ。俺はボウイのアルバムを、シックのアルバムを作るのと同じように作ったんだ。セッションがどう行われたか人に話すと、みんな俺のことを大ボラ吹きだと思った。でも俺は“いや、真逆だよ”と。いかにボウイが俺たちを信頼してくれたかってことさ」(11 January 2016, Pitchfork

「“シリアス・ムーンライト”の“シリアス”ってのをボウイは俺から取ったんじゃないかと思うよ。俺は年中“シリアス”って言ってたからね。“おい、こいつはシリアスだぜ”とかさ。イカす、とか、すごくいい、っていう意味のディスコ用語なんだけどね。ディスコじゃ何でもかんでも“シリアス”なのさ。〈Let's Dance〉の場合、デヴィッド流のそれに対する解釈が、あの深みと奥行きを曲に与えたんだ。シンセ・ベースとフェンダー・ベースを合わせたり、ちょっとした要素を混ぜて、俺がちょっと思いつかないような鋭さや刺激を加えたりしてね。シックの〈Good Times〉なんかの場合、一番重要なパートはブレイクダウンでさ。途中でベースだけになって、そこへピアノが入って、フェンダー・ローズが来て、次にギター、次にソロ、次にバック・ヴォーカルって感じで、最後に元へ戻る。バンドがブレイクダウンに入ると、決まって観客たちは騒いだもんさ。俺たちは12インチ版の〈Let's Dance〉(=アルバム全長版)でそれと同じ戦法を使ったんだ」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story

※“シリアス・ムーンライト(serious moonlight)”は「Let's Dance」の一節。当時のデヴィッド・ボウイの世界ツアーのタイトルにもなった。

「誰もが〈Let's Dance〉を書いたのは俺だと思うだろうよ。バーナードがノリノリのウォーキング・ベースを弾いてるシックっぽさがあるからね」(May 1983, Musician

「俺は自分の曲がどれもフックで始まることを思い出した。黒人の世界にはそんなにたくさんラジオ局もないし、ヒットを出すチャンスも限られてるから、メイン料理の前にデザートを出さなきゃいけないのさ。だから俺は言ったんだ。フックから始めよう、歌い出しを“Let's dance!”にしようぜ、って。ちょっと戸惑ってたけど、彼は理解してくれた。数年後、授賞式の場で俺に賞を渡してくれた時、彼はこう言ったよ──“皆さん、この賞を渡せて光栄です。僕にサビから曲を始めさせたこの世でただひとりの人物、ナイル・ロジャーズ!”」(11 January 2016, The Guardian

「デヴィッドは、白人だろうと黒人だろうと、誰でも好きなプロデューサーを立てられただろう。クインシー・ジョーンズとだってやれただろうし、そっちの方がヒットは約束されてる。でも、彼は俺に連絡してくれたし、俺はそれを光栄に思ってるよ」(May 1983, Musician

「(“ディスコはゴミだ”の風潮のせいで)当時の俺はほとんど嫌われてた。“ダンス”って言葉から逃げなきゃならないってのに、出したアルバムが『Let's Dance』だなんてさ。“マジかよ、ボウイ、勘弁してくれよ。あんたのアーティストとしての顔を使って、俺もカッコよくて芸術的だと思われるような、とびきりクールなことはやれないのかい? 頼むよ、ミスター・ボウイ!”ってなもんだったね」(11 January 2016, Pitchfork

「デヴィッドは記者たちに“どの辺までナイル・ロジャーズの手を借りたのか?”みたいに訊かれるようになった。こういうのはアーティストにとっては微妙なところで、デヴィッドのような地位にあると尚さらだ。よくローリング・ストーン誌とかの大きなインタヴュー記事を目にしたけど、俺の名前が出てきたか定かじゃないよ。触れられたとしても一度くらいのもんでさ。持ち上げられるのはイギーとかロバート・フリップなんかで、こっちにしてみれば、タイム誌の表紙を飾るようになったのはそんなんじゃなくて、『Let's Dance』のおかげだろって。まるで彼が意識的に俺に距離を置こうとしてるみたいだった。'90年代の今になって彼がどう言ってるかと言えば、俺の名前を持ち出して、“ったく、あんなことするんじゃなかった。あれは基本的にナイル・ロジャーズのアルバムで、そこに僕が参加したものだ”と言わんばかりの勢いでさ。まあ、あながち外れてるわけでもないけどね。デヴィッドなしであんな作品は出来なかったし、作ろうとすら思わなかっただろう。でも、あの当時、もし彼が俺の功績をもっと認めてくれていれば、自分には色々と道が開けたと思うんだ。どんどん垣根を越えて、U2とかスティングとか、もっといっぱいロック勢をプロデュースしてみたかったよ」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story


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DAVID BOWIE on BLACK TIE WHITE NOISE

「ホワイト・ノイズは、何年も前にシンセサイザーで初めて出会ったものだ。ブラック・ノイズとホワイト・ノイズがあって、白人の手によるものがホワイト・ノイズだと僕は考えた。ブラック・タイというのは、僕にとって、ミュージシャンになりたい、曲を書きたい、と思わせる大きなきっかけになったのがアメリカの黒人音楽だったからだ。リトル・リチャードや'50年代のジョン・コルトレーンとかね。最初に巡り会ったアーティストがリトル・リチャードで、僕が8歳の時だった。なんて凄いんだと思ったよ、音全体から伝わってくる攻撃的な感じがね。天を突き破るような彼のあの声。そこから僕はアメリカの黒人音楽に引き込まれていった。それでジョン・リー・フッカーとかのブルースを知って、何年もの間、リズム&ブルースのバンドをやったり。そうした活動の中で、ああいう音楽に対する僕自身の黒い絆(black ties)が出来上がったのさ」(May 1993, Record Collector

「(アルバムに)特にテーマというのはない。敢えて言うなら、ここ2〜3年で僕のまわりで起こった出来事について書いたってことだろうね。もともとウェディング・ミュージックを書くために始めたことなんだ。最初は教会用に書いたから、ドラムもベースも入れてなかった。でも曲を書き終えてレコーディングするうちに、自分のやってることについてもっと書きたい……ティン・マシーンで活動したり、イマンと出会ったこの2〜3年間のことを歌いたいという気になっていった。日記を書き込むようにね」(May 1993, Crossbeat

「ナイル・ロジャースの起用はごく自然に決まったんだ。ニューヨークでやったティン・マシーンのショウにたまたまナイルが来てくれてね。ショウの後2人で、これからどういう音楽をやっていくつもりか、なんてことを話したんだ。で、また一緒にスタジオでやらないかってことになってね。あの時再会したのは完璧なタイミングの良さだったよ。あの頃ちょうど、2人とも音楽に対してすごく似通ったアプローチを考えていたからね」(May 1993, Rockin'on

「ナイルと僕に『Let's Dance 2』を作る気があれば、何年も前にやっていたよ。多分、それをやる意味があった時期にね。再び一緒に組んで、僕らはそこにだけは陥らないようにしたんだ」(January 1993, Rolling Stone

「僕がナイルとまた組んだと聞いて、人が何を考えるかってのはこっちにも分かってた。でも、僕は“第二の『Let's Dance』にはしたくない”と考えていて、そのせいで余計に気合いが入ったね。これは非常に私的なアルバムなんだ」(March 1993, New Musical Express

「(いつも『Scary Monsters』を聴き返してしまうのに対して)ナイルには申し訳ないけど、『Let's Dance』はあまり聴かないんだ。あれは完全に僕ってわけじゃない。すごくナイル色が強かった。もう勘弁だと思ってね。今回のアルバムはとても自分らしい作品に仕上がったよ。ナイルはそこに手を貸してくれた。ナイルがすべてをやって、僕が“スティーヴィー・レイ・ヴォーンを入れよう”とか提案するだけだったのとは対照的にね。自分らしさがよく出てるのはそのせいだろうね」(June 1993, Rolling Stone

「一緒にやった最初のアルバム『Let's Dance』は好きだったけど、あれは僕と言うよりはナイルのアルバムだったと思う。いわばナイルが考えるところの僕のサウンドで、僕は曲を書いただけだった。今回は、僕が考えるところの僕のサウンドで、ナイルはそこに活気や熱気をもたらしてくれたんだ」(1993, Black Tie White Noise, video)


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NILE RODGERS on BLACK TIE WHITE NOISE

「彼とはもう何年も会ってなかった。実はイマンが俺の友達でね。彼女に婚約者がいると聞いたんで、じゃあ、そいつを交えて夕食でも、って言ったら、連れてきたのがデヴィッドだったのさ。彼の良いところは、凄くアーティスティックで常にアイディアに満ち溢れた男だってことだ。彼が新しいアルバムのコンセプトについて話しながらエキサイトしているのが、彼の目を見ていてよく分かったよ。俺たちがこれから何をするのか彼が想像していたことまでね。で、ディナーが終わった後、どちらからともなく一緒にアルバムを作ろう、ということになったわけだ」(May 1993, Crossbeat

「俺たちにとって『Let's Dance』を繰り返すことは、『13日の金曜日パート7』かなんかを作るのと同じくらいエキサイティングだったろうよ」(January 1993, Rolling Stone

「今回、彼は『Let's Dance』制作時よりも遙かに落ち着いていた。もっとずっと冷静沈着で、自分の作る音楽を心から楽しんでいる様子だったよ。……『Let's Dance』は今までで一番簡単に出来たレコードだった。たったの3週間さ。『Black Tie White Noise』は一番苦労した。ざっと1年はかかったね」(June 1993, Rolling Stone

「『Black Tie White Noise』と『Let's Dance』には雲泥の差があるよ。『Black Tie White Noise』制作時、俺はがんじがらめにされるような思いだった。“デヴィッド、こうしてみようよ”と言うと“いや、それは嫌だ”、“じゃあ、こうしてみよう”、“いや、それも嫌だ、これは僕の結婚式についての作品なんだから”って感じでさ。俺が“でもデヴィッド、君の結婚式のことなんか皆にはどうでもいいことだろ、ヒット作を作ろうぜ!”と言うと、“いや、僕は『Let's Dance』に対抗したくないんだ”っていう返事でね。“だけどデヴィッド、俺たちは『Let's Dance』に対抗しなきゃダメなんだよ。なぜ俺たちが組んでるのか、誰がどう考えたってその理由は、俺たちが『Let's Dance』を超えるものを作るために決まってるじゃないか。なあ、デヴィッド、『Let's Dance 2』を作ろうぜ。『スター・ウォーズ』みたいに行かなきゃ。『スター・ウォーズ2』が前作よりつまらなかったらしょうがないだろ。それを超えなきゃダメなんだよ!”。俺は何度も何度もデヴィッドにそう言ったんだ。イマンにも電話したよ。彼女とは友達だったもんでね。“頼むから彼に何とか言ってやってくれよ!”と言ったら、“いやよ、私はあっちの曲の方が好きだもの”とか言って、俺はもう“がああああああ〜!!!  待てよ、あれが好きなわけないだろ。頼む、イマン、彼に言ってくれって”。でも、彼女は“いやよ、私はデヴィッドに賛成だわ”って聞かなくてさ。
 俺はボウイに最高にコマーシャルなパンチを提供してたんだけど、彼はそれをほとんど全面的に拒否していた。俺は途方に暮れたよ。まるで全世界が俺の敵になったみたいだった。しかし、あまり片寄った見方は良くないな。俺の狙いは腐ってたのかもね。分かんないけどさ。でも、俺には全然ハズしてるなんて思えなかったね! 『Black Tie White Noise』で俺たちがどんなサウンドを狙っていたのかさえ俺には分からないよ。多分、俺は必要以上にのめり込み過ぎていたんだろう。実際、『Black Tie White Noise』にしても『Let's Dance』にしても、俺はいい出来だと思ったしさ。俺に素晴らしいレコードを作る力がなくなったのかも分からないし、だから一概にデヴィッドが悪いというわけじゃないんだ。レコードが完成した時、俺にはイケてないってことが分かってた。『Let's Dance』には到底及んでないってことがね。誤解しないでくれよ、確かにすごく創意に富んだ面白い曲も入ってると思うんだ。ただ、要は、『Let's Dance』ほどには良くない、ってことなんだよ。
 俺は〈Miracle Goodnight〉は気に入ってたけどね。あれは凄いと思ったよ。もしあれを1stシングルで出してれば、スマッシュ・ヒットになっただろう。もう1曲〈Lucy Can't Dance〉なんて、1位になるのは保証されたも同然だったのに、CDのボーナス・トラックでしか収録されなくて、周りの人間はみんな当惑しまくったんだけどさ。彼は成功から逃げてたし、“ダンス”という言葉を避けてた。だってほら、デヴィッド・ボウイとナイル・ロジャーズが組んで、出してくる曲が〈Lucy Can't Dance(ルーシーは踊れない)〉だなんて最高にイカすじゃないか! 俺の中ではもうグラミー賞ものだったね。でも、彼が譲らなかったんだ。すべて徒労だったよ。誰に呼びかけてみたところで聞く耳を持たなかった」(1999, David Buckley, Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story

「後年、『Black Tie White Noise』を作るためにデヴィッドが連絡してくれた時、とても光栄に思った。俺は彼も同じ考えでいると思ったんだ。“『Let's Dance』を超えてやろうぜ!”っていう。俺たちならできるはずだった。でも、デヴィッドは自分自身と張り合いたくないと言ってね。
 俺はやるべきだと思ったし、でなけりゃ、なんで俺を呼んだんだ、と。でも、プロデューサーとして、俺の役目はアーティストのヴィジョンを形にする手助けをすることだし、そういう意味では『Black Tie White Noise』で俺は自分の仕事をしたと思うよ」(December 2007, Guitar Techniques

「アルバムの仮題は『The Wedding Album』だった。俺はとにかく最高にコマーシャルな作品にしようとしていた。一方、彼はと言えば、その頃の自分の実生活を芸術的に表現したものにしようとしていた。互いにかち合っていたせいで、ちょっとばかり気まずいところもあった。でも、素晴らしいアルバムになったと思ってるよ」(12 January 2016, Rolling Stone

「なんでデヴィッドと次のレコード(『Let's Dance 2』)を作らなかったのかは、俺にもよく分からないんだ。それについては何度も考えてみたけど、ほんと理由は分からない。俺としては、デヴィッドには芸術家としての自由な精神があって、単に次へ進んだんだと思いたいね。クールなことだよ。でも同時に、デヴィッドが言ってたから知ってるんだけど、彼は『Let's Dance』の爆発的成功に矛盾みたいなものを覚えたってね。面白いよね、自己矛盾による反動が起きるなんてさ。ヒットが欲しいと言っておいて、OK、ほらヒットしたよ、タイム誌の表紙になったよ、って、実際ヒットしたってのにさ! ボヘミアン的な気質で、実際にそういう人生を送ってるデヴィッドのような人間には、とても奇妙に感じられたんだね。彼は本物だよ。彼は芸術家ぶってるんじゃない。彼こそ芸術家なんだ」(24 Mar 2000, The Golden Years, BBC Radio 2)

「彼と最後に連絡を取ったのは、'11年に俺のWe Are Family Foundation(NY同時多発テロの犠牲者の子供たちを支援するため、'01年にナイル・ロジャーズが設立したNPO)の10周年式典があった時のことだ。式典に誰を招きたいかと運営委員たちに訊かれて、俺はデヴィッド・ボウイと答えた。
 ちょうど同じ夜、奥さんのイマンがサンフランシスコで賞をもらうことになっていたせいで、彼は出席することができなかった。でも、彼は映像を送ってくれてね。彼が俺のことを褒めてくれてる映像だから、会場にいた人を除いて誰の目にも触れてない。俺はちょっと照れくさかったよ。だって、賛辞を贈りたいのはこっちの方なんだから。でも、とても温かくて紳士的なものでね。デヴィッドはいつもそんな人だった」(12 January 2016, New York Post


DAVID BOWIE DISCOGRAPHY with NILE RODGERS

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LET'S DANCE
EMI America, 14 April 1983

Modern Love / China Girl / Let's Dance / Without You / Ricochet / Criminal World / Cat People (Putting Out The Fire) / Shake It

Produced by David Bowie and Nile Rodgers
Musicians: David Bowie (vocals), Carmine Rojas (bass), Omar Hakim, Tony Thompson (drums), Nile Rodgers, Stevie Ray Vaughan (guitar), Rob Sabino (keyboards), Mac Gollehon (trumpet), Robert Arron, Stan Harrison (tenor sax, flute), Steve Elson (baritone sax, flute), Sammy Figueroa (percussion), Bernard Edwards (bass on "Without You"), Frank Simms, George Simms, David Spinner (backing vocals)



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DANCING IN THE STREET with Mick Jagger (single)
EMI America, August 1985


Dancing In The Street [Steve Thompson Mix] / Dancing In The Street [Dub Version] / Dancing In The Street [Edit]

Produced by Clive Langer, Alan Winstanley
Additional production: Nile Rodgers, Mick Jagger, Steve Thompson, Michael Barbiero
Musicians: David Bowie, Mick Jagger (vocals), Kevin Armstrong, G.E. Smith, Earl Slick (guitar), Johnny "Skinny" Regan, Matthew Seligman (bass), Neil Conti (drums), Pedro Ortiz, Jimmy Maelen (percussion), Mac Gollehon (trumpet), Stan Harrison (alto & tenor sax), Lenny Pickett (tenor & baritone sax), Steve Nieve (keyboards), Helena Springs, Tessa Niles (backing vocals)



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REAL COOL WORLD (single)
Warner Bros., August 1992

Real Cool World [Album Edit] / Real Cool World [Instrumental]

Produced by Nile Rodgers
From the original soundtrack album SONGS FROM THE COOL WORLD



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BLACK TIE WHITE NOISE
Arista, 5 April 1993

The Wedding / You've Been Around / I Feel Free / Black Tie White Noise / Jump They Say / Nite Flights / Pallas Athena / Miracle Goodnight / Don't Let Me Down & Down / Looking For Lester / I Know It's Gonna Happen Someday / The Wedding Song / CD bonus tracks: Jump They Say [Alternate Mix] / Lucy Can't Dance

Produced by David Bowie and Nile Rodgers
Musicians: David Bowie (vocals, guitar, saxophone, dog alto), Pugi Bell, Sterling Campbell (drums), Barry Campbell, John Reagan (bass), Nile Rodgers (guitar), Richard Hilton, David Richards, Philippe Saisse, Richard Tee (keyboards), Michael Reisman (harp, tubular bells), Gerado Velez (percussion), Lester Bowie (trumpet), Al B. Sure! (vocals on "Black Tie White Noise"), Reeves Gabrels (guitar on "You've Been Around"), Mick Ronson (guitar on "I Feel Free"), Mike Garson (piano on "Looking For Lester"), Wild T. Springer (guitar on "I Know It's Gonna Happen Someday"), Fonzi Thorton, Tawatha Agee, Curtis King Jr., Denis Collins, Brenda White-King, Maryl Epps, Frank Simms, George Simms, David Spinner, Lamya Al-Mughiery, Connie Petruk, David Bowie, Nile Rodgers (backing vocals)



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DAVID BOWIE as a SAXOPHONIST

NILE RODGERS
「ティン・マシーンでも彼はよくサックスを吹いていたから、求めていた音を出すことに自信がついてきたんだと思うよ。俺たちはあの音をドッグ・サックスと呼んでいるんだ。かなりそいつに入れ込んでしまって、『Black Tie White Noise』で聴けるサックスは全てこのドッグ・サックスだと言っても過言ではないね。メロディアスなサックスは使わなかった」(May 1993, Crossbeat

「自分が常識的な意味でのサックス奏者でないことは、デヴィッド自身が真っ先に認めるだろうね(笑)。誰も彼に演奏会をやらせようとは思わないだろう。彼は表現上の道具として自分の演奏を使うんだ。彼は画家なのさ。頭の中でアイデアが聞こえていて、それに従う。でも、自分がどこへ向かっているのか彼はきちんと分かってる。というのも、彼は同じ演奏を何度も何度もその通りに繰り返すんだよ。俺は“ああ、そう聞こえてるんだな”と。意図的な偶然とでも言うやつさ」(June 1993, Rolling Stone

LESTER BOWIE [trumpeter on "Black Tie White Noise" album]
「デヴィッドのサックスはビル・クリントンとどっこいどっこいだね(笑)。でも、これがいい感じなんだ。音楽としてはとても良いんだな」(January 1993, Rolling Stone

REEVES GABRELS [guitarist on "You've Been Around"]
「デヴィッドはサックスのニール・ヤングだね。技術的ではない、直感的な才能があるんだ」(January 1993, Rolling Stone


※'16年2月15日(日本時間16日午前)にロサンゼルスで行われる第58回グラミー授賞式で、ナイル・ロジャーズはレディー・ガガと共にデヴィッド・ボウイの追悼パフォーマンスを行う予定。そこでナイルは音楽監督も務めている。



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