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FOREVER MICHAEL

FOREVER_MICHAEL.jpg

 Gone too soon.
 
 '09年6月25日の昼間、ロサンゼルスでマイケル・ジャクソンが逝去した。享年50歳。
 
 日本時間では今日6月26日の朝。
 午前7時過ぎ頃にテレビを見ると、マイケルが呼吸停止状態でロス市内の病院に自宅から緊急搬送されたというニュースが速報として伝えられた。私はただただ愕然とし、こんなニュースが存在しない、いつも通りの朝であったら、と現実逃避的なことを考え、じっと続報を見守った。そして、徐々にマイケルの死亡を伝えるアメリカのメディアが現れ、その死は遂に確定的なものになってしまった。

 恐らく多くのファンが同じだと思うが、この知らせを聞いて私が真っ先に連想したのは、ちょうど2年半前、'06年12月25日に他界したジェイムズ・ブラウンのことだった。その死もやはり突然だった。
 JBはその年の2月末~3月に来日公演を行っていて、私は最終日である3月5日の東京国際フォーラム公演を観た(私がJBのステージを観たのは、それが最初で最後だった)。その日のショウの終盤で歌われた「It's a Man's World」の途中、JBは日本語の通訳を通して“しばらく日本には来られないと思う”という妙に淋しいことを言っていて、終演後、私はもう二度と彼のライヴが観られないような予感に苛まれたのだった。ショウ自体が最高だったこともあり、私は前日の公演も観るべきだったと後悔し、できるものならアメリカまで追いかけて観に行きたいという気持ちにすらなっていた。
 そして、結局、JBはその年のクリスマスに逝ってしまった。享年73歳。死因は急性肺炎、場所はアトランタの病院だった。数日後にはコンサートやテレビ出演の仕事が普通に入っていた。

 JBの死は確かに突然ではあったが、生涯現役を貫いていた中での死で、JBらしくもあり、それなりに受け入れることもできた。73歳という年齢は少々早いが、それでも天寿を全うしたという感はあった。

 しかし、マイケルの死は、あまりにも突然で、早過ぎる。
 
 兄のジャーメインがロスのUCLA付属病院で行った公式発表によると、マイケルが呼吸停止で同病院に運ばれたのは、現地時間の25日午後1時14分。その後、1時間以上におよぶ蘇生措置が行われたが、結局、午後2時26分に死亡が確定した。

 '92年のルーマニア、ブカレスト公演のヴィデオで、マイケルがロケットを背負い、空中を飛んでステージを去るという度肝を抜く演出があった。映像をよく見ると、飛ぶ前にステージ上で替え玉と入れ替わっていて、実際に飛んだのはマイケルではなく、プロのロケットマンだということが分かる。
 今回のニュースも何かの悪い冗談で、死んだのは替え玉マイケルで、実は本人は生きているのではないか、などという妄想をしてみたりもしたが、残念ながら、そうではないようだ。マイケルは本当に天に昇ってしまった。


 私が熱心に音楽を聴くようになったきっかけは、マイケル・ジャクソンだった。

 '83年、『THRILLER』が爆発的にヒットしている頃、私は小学生だった。当時はMTVの勢いが凄まじく、日本でも民放に洋楽番組がたくさんあり、私はそれらを録画したり、あるいはFMをまめにエアチェックしたりしながら、アメリカのトップ40ものを夢中で聴いていた。
 中でも、マイケルは別格中の別格だった。小学校から帰ると、友達と「Beat It」や「Thriller」のヴィデオを何度も繰り返し見て、そのダンスを真似た。もちろんムーンウォークもコピーした(私は学年中で一番ムーンウォークが上手かったように思う)。マイケルとクインシーが総なめにした'84年のグラミー賞をテレビで観ながら、すごい!すごい!と興奮したこともよく覚えている(今では考えられないが、当時、グラミー賞は毎年2時間くらいの枠で民放ゴールデンに放映されていたのだ)。
 '87年『BAD』発表の時は、1stシングル「I Just Can't Stop Loving You」を聴くためにラジオにかじり付いたし、新しいヴィデオ・クリップ(ショート・フィルム)が発表される度、その全長版を観るため、テレビのマイケル特番や、〈ベストヒットUSA〉などの番組を録画しながら画面を食い入るように眺めた。中学校の社会科見学で東京ディズニーランドに行った時は、もちろんマイケルの3D映画『Captain EO』を観た。内容は正直いまいちという感じだったが、宇宙船のデザインは悪くない、などと友達と感想を喋り合ったことも覚えている。
 '87年、'88年の来日公演は行かなかったが、'92年12月『DANGEROUS』時の来日公演には行った。東京ドームの2階席で、マイケルは豆粒のようだったが、「Billie Jean」でピンスポットを浴びながらステージ上を滑らかに移動する光景は今でも脳裡に焼き付いている。私がマイケルのステージを観たのは、それが最初で最後である。

 『DANGEROUS』後は、個人的にもっぱらロックを中心に聴くようになってしまったせいもあり、マイケルからも徐々に興味が薄れ、'95年の2枚組ハーフベスト『HISTORY』以降はあまりまともに聴く気にはならなかった。『HISTORY』時のツアー映像をBSで観た時も、身体の切れはいまいちだったし、何より歌がほとんどリップシンクという点にガッカリしたのだった。

 それでも、かつてマイケルから洗礼を受けた音楽ファンとして、彼の活動は常に気にしていた。'01年の『INVINCIBLE』にもそれなりに盛り上がったが、むしろその後、個人的な音楽の嗜好の変化で黒人音楽を中心に聴くようになった頃から、私の中でマイケル再評価はどんどん高まっていった。ブートレグで色々と過去の映像を集めては、そのパフォーマンスの無敵ぶりに感動し、また、タップ・ダンスに対する興味から、20世紀前半の黒人ダンサーの映像を集めるようになった時も、結果的に、黒人芸能の継承者としてのマイケルの偉大さに唸らされることになった(彼のダンス・スタイルにおける過去の黒人ダンサーからの影響については、'08年8月29日のエントリーで詳しく書いた)。


 来月7月13日からロンドンで、『HISTORY』時以来12年ぶりとなる復活コンサートが50公演も予定されていた。“いくぞ! いよいよだ!(This is it!)”というコンサートの発表記者会見の様子をテレビで見た時は、おいおい、ほんとに大丈夫かよ(新譜もないのに)……と思ったが、半分はやはり期待していた。もちろんかつての切れやパワーは望めないにせよ、それでも、逆転三塁打くらいは打ってくれるかもしれない、と心のどこかで思っていた。

 とにかく、本当に残念でならない。今まで様々なアーティストの訃報に触れてきたが、正直、ここまで打ちのめされたことはない。本当に残念だし、今日テレビで延々と流れるマイケルのPV映像などを観ていても、いまだ信じることができない。

 世界的スターの死、その衝撃度・喪失感の大きさという点では、29年前のジョン・レノン以来ということになるかもしれない。今後、あらゆるメディアでマイケルの追悼企画が組まれるだろうし、マイケルに関する言説も大量に出てくると思う。
 しかし、私は今、それらに触れたいと思わない。しばらくは、ただ静かに彼の冥福を祈り、その死を徐々に自分の中で消化していきたいと思う。


 ここはシャーデー・ブログなので、最後にシャーデー・アデュのマイケルに関する発言を紹介し、この取り留めのない文章を締めることにしたい。以下は、'79年にジャクソンズのロンドン公演を観た時の記憶についてアデュが語ったもの。会場はレインボー・シアター。ファッション・デザインを学ぶため、彼女がセント・マーティン美術学校に通っていた頃の話である。
 
「ステージのパフォーマンス自体よりも、観客の方に魅了された。若者、親子連れ、年輩の人、白人、黒人……あらゆる層がショウを楽しんでいた。すごく感動したわ」(6 November 1994, The Magazine)

 『DESTINY』発表時に行われたジャクソンズのこのレインボー・シアター公演は、大昔にオフィシャルでヴィデオ発売されたことがあり、今でもブートレグで容易に入手できる。観た人は分かると思うが、とにかく圧倒的に素晴らしい最高のショウである。
 ここでアデュが“感動した”と語る観客席の様子は、シャーデーのコンサートでもそのまま見ることができる。そこでは、人種、性別、年齢に関係なく、あらゆる種類の人々が一緒に同じ音楽を楽しんでいるのである。“それが私たちの一番の成果かな”と、アデュは上記のインタヴューの中で話している。

 マイケル・ジャクソンについて語られるべきことはいくらでもあると思うが、ひとつだけ言っておきたいのは、彼がいなければ、今のアメリカ、今の世界はなかったということだ。マイケルがいなければ、バラク・オバマは大統領にはなっていなかったし、アメリカでの黒人大統領の誕生は、間違いなく20年は遅れていた。

 そして、マイケルがいなければ、このブログも存在していなかったのである。

 とにかく圧倒的だった。
 心から冥福を祈る。

 DANCE IN PEACE



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